第14話
りんは余程眠っていなかったのだろう。それを取り戻すようにして、一度眠りに就くとそこから起きなかった。寝返りも打たなければ、寝息も小さくて聞こえない。時折不安になって、じゅんは眠るりんの顔に耳を近づけて息をしているか確かめるほどだった。
なんともないと思うけれど、不安になる。こんなことを繰り返していたら、りんまでじゅんを置いて逝ってしまうのではないか。診療所で診てもらった方がいい気がしてきた。
これがただの疲れだとしても、それはそれでどうしたらりんは素直に休んでくれるのだろう。これに懲りてくれたらいいけれど、また熱中しすぎて倒れてを繰り返しそうだ。
とにかく、りんが心配だった。それなのに、じゅんはりんのためにできることがあまりに少ないような気になる。
今日はじゅんも見世に立たないから、こんな時くらいはりんを労わって過ごしたいけれど、何をしたらいいのだろう。
「おりんちゃん、おじゅんちゃん、入るよ」
部屋の前から声がかかった。
りんはそれでも起きなかった。じゅんが立ち上がるのと、留が戸を開けるのはほぼ同時だった。留は手にした鉢をを軽く持ち上げてみせる。
「おりんちゃんに精のつくものをと思ってね。こはだと大根の煮つけだよ」
長屋の皆は、この家で食べることはりんが仕切っていると知っている。そのりんが不調なのだから、助けてやらなくてはと思ってくれたようだ。じゅんは真剣に、りんに料理を習おうかと反省した。
「ありがたく頂くわ、お留さん」
せっかく用意してくれたのに遠慮などするものではない。じゅんが手を差し出すと、留は煮つけの入った鉢を手渡してくれた。ずっしりとした重みがありがたい。
そうして、留は眠るりんを見遣った。
「おりんちゃんも今日はしっかり休まないとね。おじゅんちゃん、あんたもだよ」
「うん、あたしは平気よ。今日は見世にも立たないし」
「おりんちゃんのことはしばらく見ていてあげるから、湯屋にでも行っておいでよ。このところ忙しくて、ゆっくり浸かってないんだろ? それじゃあ疲れも取れやしないよ」
確かにこのところは烏の行水であったかもしれない。ゆっくりと湯に浸かるよりも長く寝ていたいとじゅんは思っていた。りんは、やることが山積しているとばかりに長く浸かろうとしなかった。二人で湯屋に行っても体を洗ったらすぐに出ていたのだ。
できればりんと一緒に行きたいけれど、りんが起きたらまた行けばいい。留がこう言ってくれているのだから、その言葉には甘えるべきだろうか。
「いいの? お留さんだって忙しいのに」
「忙しいったって、家のことだよ。一日くらい手を抜いたって困らないさ」
と、黒い歯を見せて笑った。こうした時、長屋の人々の温情が心底ありがたい。
「うん、じゃあお言葉に甘えて行ってくるわ」
「そうしなよ」
じゅんは糠袋と手ぬぐいの支度をする。このところは湯屋を閉めるような頃合いに行くことが多かったので、明るいうちに湯屋に行くのが妙な気分だった。
それでも、じゅんは留にりんを任せて湯屋に向かう。その間、色々と考えた。
今日、用意をした豆腐田楽をまずどうしようか。あのままでは勿体ない。仕込みはできているから、焼くだけならじゅんにもできる。
湯屋から帰ったら焼いて長屋の皆に振る舞おうか。それでも数が多いから余るかもしれない。稼ぎにはならないけれど、無駄にするよりは食べてもらった方がいいだろう。
もともと四文で売るようなものだから売れても薄利である。売れなければ損をするけれど、りんがあの調子では無理はさせられない。
調子よく行っていた時は、このままなら暮らしに困らない程度の蓄えができると思ったのに、商売というのは一度調子が狂うとこんなにも不安になるものなのだ。いつも通り、休むことなく働けて初めて銭が入る。そんな当たり前のことを改めて考えさせられた。
働き詰めでは体が持たない。休めば実入りが減る。このふたつを秤にかけてどちらかを選ぶしかないらしい。
それなら、一日に作る量を増やして休む日を作るというのはどうだろうか。六日に一度くらいでいい。休める日を作れば、りんも体を労わってくれるはずだ。しかし、それには作っただけのものを無駄なくちゃんと売り切らなくてはいけない。
何かいい案が浮かばないものかと、じゅんは歩きながら考え続けた。湯屋はじゅんたちの住む長屋からそう遠くはない。江戸っ子は日に何度も湯に浸かるほど風呂好きが多いから、湯屋の数自体が多いのだ。三町(約三百二十七メートル)も歩けば着く。
じゅんたちが贔屓にしている『駒形町湯屋』だ。小さい頃からずっとここに通っている。だから、主の
「おお、おじゅんちゃん、今日は随分早ぇじゃねぇか。それに一人ってのも珍しいな。いつも一緒の姉妹がよ」
暖簾を潜ると、番台に座る作蔵が目を丸くしながら迎えてくれた。父の富吉よりも少し年嵩で、大柄なせいか近頃は番台に座っていると腰が痛くなるとぼやいているが、番台で客を迎え入れて話し込むのが好きなのだ。
「うん、姉さんは少し疲れて寝ているの」
じゅんがしょんぼりと言ったせいか、作蔵も困ったように眉を下げた。
「そうか、おりんちゃんがな。そいつぁ心配だな」
「姉さんはすぐに無理をするから。これからはあたしがもっと気をつけないと」
「富きっつぁんがこんなに早く逝っちまって、おりんちゃんも気が張ってたんだろうな。大事にしてやんな」
「ええ、もちろん」
湯銭は月極で払っているので、じゅんはそのまま上がった。
女湯の方へ向かい、『失せ物存ぜず』の定め書きを通り越えて壁際の棚に脱いだ着物を入れる。まず、持参した糠袋を手に流し場で体を洗った。
これからゆっくり浸かろうと思ったものの、柘榴口を越えると、いつもは空いている湯船が今日はいっぱいで落ち着かず、結局早く出てきた。それは混雑していたからというばかりではなく、一人でゆっくりしていても寂しいからだ。
りんはそろそろ起きただろうか、目が覚めた時にじゅんがいないと寂しくないだろうかと、そんなことばかり考えてそわそわしてしまう。もう帰ろうと着物を着込んだ。
番台の作造に挨拶してから出ようとしたじゅんだったが、ふと二階へ続く梯子段が気になった。二階は風呂上りにくつろぐための場であるのだが、そこは男客に限られており、女客は利用できない。風呂上がりの上気した肌の女が立ち入って何かあったのでは、主も失せ物のように『存ぜず』とは言い張れないのだろう。
そうなのだが、梯子段を軽やかに上って行ったのは若い女子だった。はてと思ったが、よくよく考えてみると、あの女子は売り子だろう。二階には少々の茶菓や酒肴を置いているという。
二階は上がるだけでも場所代として八文と壁に書いて貼ってあった。湯に浸かるにも銭がかかり、それでもさらに銭を払って二階でくつろぐ男たちがいる。それがささやかな贅沢ということなのだろう。
そこでじゅんはハッと思いついた。思いついたからには口に出す。
「作造おじさん、二階では食べ物も売っているのよね?」
じゅんが前のめりになるからか、作造が驚きつつうなずいた。
「ああ、まあ、少しな」
「豆腐田楽とか売れると思う?」
「酒に合うし、あれば売れるんじゃねぇか? 置いたことねぇけどな」
それを聞いた途端、じゅんは目を輝かせていた。これでりんの心労が減るはずだと。
「実は今日売るつもりだった豆腐田楽が余っているの。焼いて持ってきたら売ってもらえるかしら? 売ってもらえるのなら、売り上げからお礼はするから、お願いっ」
手を合わせて拝むようにするじゅんに、作造は苦笑した。
「おお、おじゅんちゃんもいっぱしの商人になったじゃねぇか。いいぜ、持ってきな。困った時はお互い様ってやつだ」
「ありがとう、作造おじさんっ」
飛びつかんばかりの勢いで礼を言うと、じゅんは濡れた手ぬぐいと糠を抜いた糠袋とをつかんで小走りに家へ戻った。
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