第8話
その日も姉妹は浅草広小路に行き、昨日と同じ天麩羅屋の隣に屋台をつけた。
「おお、おはよう。昨日の田楽、美味かったぜ。木の芽味噌の塩加減がいい塩梅で酒に合うったら」
勘助は楽しげに手酌の真似をした。
りんも褒められて嬉しそうだ。
「ありがとうございます」
「お返しに好きな具で天麩羅をひと串揚げてやるぜ。何がいい?」
「いえ、そんな、かえって悪いですし」
なんてやり取りをしている。勘助はいい人だな、とじゅんも嬉しくなった。
じゅんはそのまま、てきぱきと準備をする。被せを外し、饅頭と田楽を綺麗に並べて、いつでも客を受け入れられるように待ち受けていた。
すると、少々がらの悪い男たちがこちらをじっと見ているのに気がついた。昨日もいかにも女たらしの男たちが何人か客としてきた。居座られると、うちは茶屋とは違うと言いたくなったが、買ってくれたから我慢した。
けれど、それとはまた違う。もっと目が鋭い。ああした荒くれが難癖をつけてきた時、女二人でどう切り抜けたらいいのだろう。
じゅんはどきどきしながら、あの男たちが通り過ぎてくれることを祈っていた。
りんも男たちに気がづいたらしく、勘助との話もそこそこにじゅんに身を寄せた。
「あの人たち、ずっとこっちを見ているわ」
「姉さん、あたしたち何も悪いことはしていないんだから、大丈夫よね?」
こんな時、不安なのはどちらも同じなのに、ついじゅんが怯えてしまうと、りんの方がじゅんを守らねばという気になってしまう。りんはじゅんの手を一度強く握った。
「ええ、大丈夫。心配要らないわ」
儚げに見えるりんが、こんな時には菩薩のような救いに見えるから不思議だ。りんは一見落ち着いた様子で立っている。
いつもはじゅんの方が気は強いのに、いざという時には駄目だ。どうしていいのかわからなくなる。考えるのが苦手で、りんを守りたいと思うのに怖気づいて震えてしまう。
男たちはじわじわと姉妹の屋台に近づいてきた。数は三人。月代はだらしなく伸び、襟を崩して開いている。どう見ても真っ当ではない。組んだ腕には刃物による鋭い傷痕が見えた。喧嘩に明け暮れているような男たちなのだ。
その中の一番若く見える男が屋台をじっと見据え、それから屋台の台の上にどん、と手を突いた。
じゅんは思わず身を竦ませる。それでも、りんはじゅんを庇いながら男に顔を向けていた。りんは目を逸らそうとしない。男は、そんなりんに向かって低く声を発した。
「お前さん方、ここで昨日から商売をしてるって触れ込みだが、間違いねぇだろうな?」
「ええ、昨日から――」
りんが細い声で答えると、男はまた屋台の台をだん、と叩く。
「誰に断って商売を始めた? ええっ?」
また、だんだん、と台を叩く。二人して抱き合い、体を縮こまらせるしかなかった。
「だ、誰にって」
じゅんは言葉に詰まる。横目で勘助を見ると、勘助は顔を引きつらせていた。まるで信じられないものを見たような目だ。
「ここは
源六親分とはどこの誰のことなのだろう。聞いたことくらいはあるような、そうでもないような――。
その前に、この男たちの言うことは本当なのだろうか。難癖をつけられているだけのような気もする。二人の商売が上手く行きそうだから邪魔をしに来ただけかもしれない。
けれど、仮に嘘だとしても、姉妹にはどうすることもできないのだ。
二人が震えていると、向こうからゆったりとした足取りで歩んでくる中年男がいた。羽織を着ているものの、明らかに堅気とは言えない雰囲気を醸し出している。角ばった顔つきや固太りの体が貫禄に繋がっている。
背後には荒くれの男を他にも引きつれていた。ざっと見ても六人ほどいる。
姉妹に対して凄んでいた男たちも皆、その中年の男に頭を下げた。手下らしき若衆たちは少し下がり、男に場を譲る。さすがにじゅんも、この男が源六親分ではないかと気づいた。男はゆったりとした口調で口を開く。
「お前さん方、ここで商いを始めたそうじゃねぇか。ここで商いをする者はそれぞれ顔役のあたしに場所代を上納しているんだ。それをお前さんたちだけに許すわけにはいかねぇ。さあ、どう落とし前をつけてもらおうか」
さっきの男のように怒鳴ったり、大きな音を立てているわけではない。それなのに、低い声がぞっとするほど体の奥まで沁みてくる。その声に、真冬の寒風よりも凍てついた。
けれど、この場所は広小路。火避け地だ。
公儀にこれを言われるのならば仕方がないとしても、それ以外の人に所有を主張されるのもおかしな話ではある。すんなりと呑み込めないけれど、理屈は抜きにして怖い。
今まで、こんなふうに男たちに絡まれたことのない二人だから、どう切り抜けていいのかわからない。恐ろしくて、上手く考えることができなかった。
「岡場所にでも売っぱらってやりやしょう」
下卑た声がして数人がげらげらと笑った。
じゅんが無言で震えていると、りんはじゅんの肩を離し、それから屋台の横に出た。
「姉さんっ」
じゅんは驚いてりんに手を伸ばしたけれど、体が強張っていて届かない。りんは屋台の横で地面に膝を突いた。そのまま手を添えて、顔だけは源六親分に向けたまま口を開く。
「商いをしたことのない、物知らずの私たちです。そんな決まり事があるとは露知らず、礼を欠きましたが、誓ってわざとではございません。親分さんの顔に泥を塗ってしまうようなことをしでかしてしまい、申し訳ございませんでした。今後、場所代は支払わせて頂きますので、今度ばかりはお許しください」
そう言うと、りんは地面に額をつけるほど低く頭を下げた。じゅんも堪らなくなってりんの隣で同じように手を突いた。
しかし、じゅんは正直なところ、はらわたが煮えくり返るような気分であった。
人々から金を巻き上げるばかりのくせに、偉ぶって弱い者いじめをしている。いつか罰が当たればいいと思った。
そんな気持ちが源六親分に伝わってしまったのだろうか。源六親分はクッと笑った。
「別に無理をして従えとは言わねぇよ。若ぇお前さんたちには納得できねぇところだろうしな」
では、場所代を払わなくてもいいのか。正直なところ、それほどの儲けが出るわけではないのに、この上場所代と言われると厳しいのは事実だ。
すると、りんは顔を上げた。まっすぐに親分に目を向けているのが隣にいても伝わる。じゅんは恐ろしくて顔を上げられないのに。
りんの声は落ち着いていて、春風のようだ。こんな時でさえそれを思う。
「いいえ、決まり事なのですから、それを教えて頂いた以上、今後はお支払い致します。ここで商いをする皆様がお支払いしているのに、私たちだけが支払わないのでは筋が通りません」
じゅんが顔を上げられないままでいても、りんはしっかりとした口調で目を背けることなく源六親分に口を利く。少し先に生まれたからといって、りんがじゅんを守らなくてはならないということはないのに。じゅんもそれに甘えてばかりいてはいけないのに。
手にグッと力を込め、じゅんもなんとかして顔を上げた。この時、りんの横顔は不思議と穏やかに見えた。
「場所代を支払うことで、親分さんは私たちをお仲間に入れてくださるということなのですね。皆さんと同じように扱って頂けて感謝するばかりです。至らないことの多い私たちですが、今後よろしくお願い致します」
再びりんは頭を下げた。じゅんもそれに倣って、せっかく上げた顔を再び下げながら考えた。
――場所代を支払う人と支払わない人がいたのでは、皆が同じではない。不満が溜まるのも当然だ。他の見世の人々の反感を買わないように、同じように扱われるべきだとりんは考えるのだろうか。
そこで源六親分の笑い声が聞こえた。それは先ほどの冷たいものとは違い、どこか楽しげでさえある。
「お前さん、若ぇ娘にしちゃあてぇした落ち着きぶりだな。その度胸に免じて、今回は知らなかったって言葉を信じてやる。今後はしっかりな」
「はい、ありがとうございます」
二人して頭を下げていると、源六は手下を連れて去っていった。
広小路では皆がざわついたままで、しばらく姉妹に声をかけて来なかった。隣の勘助だけは引きつった顔で、膝についた砂を払いながら立ち上がる姉妹に小声で言った。
「お前さんたち、場所代を納めてなかったのかい? 胆が潰れたぜ」
じゅんは乾いた笑い声で返す。
「うん、そういうのがあるって初めて知ったわ」
商売をしたいから始めた。けれど、それだけではいけない世の中らしい。
自分の勝手だけではできないことがたくさんあるのだ。ここに住みたいから、と店賃も払わずに長屋に住んではいけないのと同じなのかもしれない。
りんは今になって疲れが出たような顔をしていた。じゅんは心配しつつ背中を摩る。
「姉さん、大丈夫?」
「ええ、なんとか」
そう言い、りんは苦笑した。
「場所代というのは、きっとただ払うだけのことではないのよ」
「どういうこと?」
「場所代を支払うことで、親分さんはこの場所で商いをする私たちを見守っていてくれるってことなんだと思うわ」
つまりね、と言ってりんは続ける。
「ここで揉め事を起こしたりした時、仲裁に入ってくれたり、そういう意味で守ってくれるのではないかしら。だから、支払わなくてもいいと言われたのだと思うの。支払わない場合は守らないけれど、好きにしろって」
あんな荒っぽい手下を連れてきて、脅すようなやり方をされたのに、りんは随分と好意的に受け取ったようだ。それが不思議ではあるのだけれど、りんが言うように守ってくれるのなら、場所代も無駄ではない。むしろ、払いたい。
「それにしても、姉さんは落ち着いていたわね。びっくりしたわ」
じゅんがそう言うと、りんはとんでもないとばかりに首を振った。
「そんなことないわ。必死だったわよ。機嫌を損ねちゃいけない相手だもの」
それでも、りんには儚げな中にも一本通った筋のようなものがある。源六親分はそれを感じ取って、りんを認めてくれたのではないだろうか。頼りない妹を細い体で庇う姉を。
じゅんはそんなりんを支えられない自分の不甲斐なさに落胆した。それを知ってか、りんは優しく笑っている。
「そうね、こんな時、おとっつぁんならどうしたのかしらって考えたの」
「おとっつぁんなら?」
どうしただろう。きっと、潔く土下座でもして謝った気がする。
いい年をしながらも、いつまでも子供のようなところのある人だったから、怒られたら素直に謝っただろう。
「相手が怒っている時、必要以上に怯えたり、怒り返したりしたのでは話ができないって、何かの折に言っていたのを思い出したの。どうして怒っているのかを知って、こちらが悪いのだとしたら心から謝ればわかってくれるって。相手の懐に飛び込む気持ちで思いきってちゃんと話すのが肝心だって」
じゅんは感情的になってしまって駄目だ。強い相手ならさっきみたいに怯えるか、怒って返すかしかできない。わかっていても実践できるかどうかは別だ。
「こうやって、おとっつぁんが今も私たちを守ってくれているのよね」
りんがそう言うから、じゅんの目にも富吉の得意げに笑う顔が思い起こされた。
「そうなのかもね」
それだけで、ふと心が軽くなる。
もういないのに、いつまでもここにいる。それを感じて、じんわりと胸が熱くなった。
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