第5話

 今日から始めると決めた三月朔日。

 二人はまだ辺りも暗いうちから起き始める。昨日のうちにりんは餡を炊いてあった。顔と手を洗った二人は、朝餉の米を炊くのと同時にまず饅頭に取りかかる。


 粉、砂糖、塩、水、とりんが饅頭の生地をこねて仕込み、それを馴染ませている間に餡切りをして餡を丸めていく。じゅんはその間に竈の火を熾していた。火吹き竹を手にふぅふぅと息を吹きかけつつ、時折りんの手元を見遣る。


 りんは目分量とは思えない確かさで饅頭の生地に餡を包んで整えた。手つきがよく、惚れ惚れする。饅頭はどれも綺麗で同じ大きさに仕上がった。後はこれを蒸せばいい。


 あまり道具がそろっているとも言えず、湯が沸いた鍋に笊を被せ、そこに饅頭を置いてまた鍋を重ねて蒸すということを普段からしているのだが、これからは量が多いので一度では蒸せない。そして、その間にもすることがたくさんある。


「とうふぅ~、とうふぅ~」


 と、竹七が豆腐を売り歩く声がした。


「姉さん、お豆腐が来たわっ」


 じゅんは火吹き竹を放り出して桶をつかむと外へ飛び出した。


「竹七さん、おはようっ」


 さっきまで竈の火に息を吹きかけていたので、じゅんは赤い顔をしたまま手を振った。長屋の皆はまだ出てこない。一番乗りだ。


「おじゅんちゃん。約束の豆腐二丁だ」


 江戸の豆腐は硬く、しっかりとしていて崩れにくい。本来、姉妹二人が食べるとしたら半丁でも多いくらいだ。


「ありがとう。重かったでしょう?」


 頼んだ豆腐に加え、長屋の皆が買う分も天秤棒で担いできたのだから、いつも以上に重かっただろう。それでも、竹七はへへっと笑った。


「いいってことよ。それより、支度は順調なのかい?」

「ええ。今、姉さんが作っているわ。――っと、そうだ、七輪の支度もしなくっちゃっ。じゃあね、竹七さん、またねっ」


 じゅんは慌ただしく豆腐を抱えて戻った。

 りんは丸め終えた饅頭に濡らした手ぬぐいを被せていた。そんなりんにじゅんは豆腐の入った桶を差し出す。


「はい、姉さん、お豆腐。あたし、七輪の火も熾してくる」

「ええ、お願いね」


 りんは豆腐の入った桶にひと回り小さな蓋をして、その上に漬物石を載せた。ああして豆腐の水気を絞っている。そのまましばらく置き、後は饅頭を蒸しつつ、これも先に作っておいた田楽味噌を塗りやすいように捏ね直していく。


 田楽味噌に入れる木の芽は朝刻んだ方が風味がいいからと、そこもちゃんと考えていた。色味も大事に、青寄せ(青菜から取った絞り汁)も混ぜ込む。


 そうして、水気を絞ってから豆腐を切り、軽く塩を振ってから竹串を打ち始める。ここで使うのは青竹の二本串だ。手伝いたいが、じゅんが切るときっと大きさにばらつきができてしまう。串もまっすぐに打てない。りんとは姉妹なのに、その器用さは似なかった。それが残念でならない。


 それでもりんの手を止めないようにとじゅんは七輪を抱えて外へ出た。家の前で七輪に炭を入れ、支度を始めていると、隣の長屋の戸が開いた。


「あ、徳次さん。おはよう」


 徳次は、切れ長の目を手首の辺りで擦りつつじゅんに目を向けた。矢鱈縞の着物の襟が少し乱れているが、だらしなくはない。


「なんだ、朝から魚とは豪勢だな」

「違うわ。豆腐田楽よ」

「そいつは手間なことをするな?」

「ああ、それはね――」


 じゅんは徳次に四文屋を始めることを手短に話した。女二人で商売なんてやめておけとは言われなかった。そんなに甘っちょろいもんじゃないと、誰もが思うはずだとしても。

 徳次は静かに聞いた後に一度うなずいた。


「そうか。上手くいくといいな」

「うんっ」


 じゅんも大きくうなずいて返した。

 徳次は、女だからというだけで馬鹿にしたり、低く見るようなことは言わない。そういう人だから、りんも好意を持ったのだ。じゅんにとっては兄同然の人である。徳次にそう言ってもらえたのは嬉しかった。


「あ、豆腐田楽が焼けたら差し入れるね」


 多分、りんも徳次に食べてもらえたら喜ぶ。しかし、徳次は苦笑した。


「売りもんだろ? 差し入れてちゃいけねぇや」


 そう言って手を振ると、井戸の方へ行ってしまった。りんが聞いたらなんと言うだろう。いや、すでに家の中で聞いていたかもしれない。

 七輪の支度を終えて戸を開けると、やはりりんは聞いていたようだ。顔に書いてある。


「姉さん、豆腐田楽を徳次さんに差し入れましょう。一本くらいいいじゃない。味を見てもらうってことで」


 りんはふっくらとした蒸したての饅頭を台の上に並べながら口を尖らせた。


「無理やり押しつけたら、徳次さんはお代を払いそうじゃない? それじゃあかえって悪いもの」

「大丈夫よ。お代は受け取らないから」

「うん――」


 商売を始めようという時に浮ついている場合ではないとりんは思うのだろうか。真面目なりんだから、そうかもしれない。

 今度は表でりんが田楽を焼き、じゅんが中で饅頭の番をする。あんまり蓋を開けるなと言われているので、本当に目の前で待っているだけなのだが。表が何やら騒がしい。


「おはよう、おりんちゃん。こんなにたくさん田楽を焼いてどうするんだい?」

「おはようございます、お留さん。実は、これから商売を始めることになりまして――」


 長屋の女房たちがわいわいとりんを囲んでいる。


「美味しそうじゃないか。ひとつ四文だろ? 売れ残ったら買うから、言っておくれよ」


 親を亡くしたばかりの姉妹に、長屋の人たちは優しい。長屋全体が家族のようなもので、皆がそれぞれに気遣い、支え合って生きている。


 じゅんもそれを改めて感じながら家にいた。日々をありがたがるのはよいことだとしても、考えすぎてぼうっとしているのはいけない。じゅんは饅頭のことを見ているようで忘れていて、りんが時折気にして部屋に戻ってきた。

 鍋の蓋を開けると、白い饅頭はふたつほど皮が割れて餡が見えていた。


「ああっ。あたしが考え事をしていたから、饅頭が割れてしまったのね。ごめんなさい、姉さん」


 しょんぼりと肩を落とすじゅんに、りんはくすくすと笑った。


「饅頭の皮は蒸すと割れやすいのよ。少しは駄目になると思って余分に作ってあるから。ああ、そうだ、これなら徳次さんも受け取ってくれるかしら。売り物にならないって言えば」


 いつもりんがじゅんに作ってくれていた饅頭は綺麗なものだった。それはりんが失敗作を自分で食べて、綺麗に仕上がった方をじゅんにくれていただけなのかもしれない。

 それでも、味は同じ。美味しい饅頭だから、徳次も喜んでくれるはずだ。


「うん、田楽と一緒に持っていったら? 姉さんが持っていって。あたしはほら、片づけがあるから」


 にやにやと笑いながら言うと、りんはほんのりと頬を染めた。


「じゃあ、ちょっと行ってくるわね」


 手ぬぐいを外し、軽く手で髪のほつれを撫でつけたりんは、やはり恋する女子だとじゅんは思った。じゅんはというと、あまり身だしなみにこだわる方ではないし、特別な誰かからよく思われたいという気持ちもない。いつかは今のりんのように乱れた髪が恥ずかしいと感じる相手ができるのかは謎である。


 じゅんは後片づけをしながら隣の様子に聞き耳を立てる。

 二人は他愛のない――よければどうぞ、もらってもいいのか、わざわざ悪いな、いえ、売り物にならない弾きものですし――なんて話ばかりしている。


 もしじゅんがりんの立場であれば、大家から嫁入り先を世話すると言われた話や、これから妹と二人で先行きが不安だとかいう話をしてみるのに。それで脈があるかどうかわかるのではないのか。――いや、徳次も無骨だから、本音は別として、そうかい、なんて素っ気ないことしか言わないかもしれない。それでりんが余計にもやもやする。


 面倒くさい二人だな、とじゅんは壁越しに呆れていた。

 まあいい。早々に上手くいってしまっては、じゅんもりんとべったりしているわけにはいかないのだから、ゆっくりと前に進んでくれたらいいのだ。

 大雑把なじゅんはぺんぺん、と笊を叩いてひっくり返すと片づけを終えた。


 いよいよだ。

 屋台に盆を載せ、饅頭と田楽を積む。四文屋なのだから、客が払う銭はほぼ四文銭であると考えていい。釣り銭は用意しなかった。


 そもそも、四文屋という商売が出来上がったのは、明和五年(一七六八年)に発行された真鍮製の寛永通宝の出現によるところが大きい。


 これが一枚で四文と計算も容易くできるため、せっかちな江戸っ子に好まれたのだ。丸い銭の中央には四角い穴が空いており、表面には寛永通宝の文字、背面には青海波せいがいは。それ故に波銭とも呼ばれる。

 りんとじゅんの命運は、この通貨にかかっている。


 出かけに屋台に小さな椀を積んだのは、ここに売り上げを入れようと思ったからだった。この椀から溢れるほどの銭が貯まればいいけれど、売り物がそう多くないから、全部売れたとしても今日はいっぱいにならない。初日の今日は小手調べだ。


 屋台のところで支度をしているじゅんのところにりんが戻ってきた。


「――いよいよね」


 りんがなんとも複雑な面持ちで呟いた。

 嬉しさと、不安と、迷いと、いろんな感情がりんの顔から見て取れる。口元は微笑んでいるのに、眉は下がっていた。


「そうね。でも、あたしは心配してないわ」


 じゅんはまっすぐに立って胸を反らした。


「だって、姉さんが作ったものは美味しいから。これがたった四文だもの。お客様もきっと喜んでくれるわ」


 じゅんは、りんに比べたらできることが少ない。器用ではないし、細かいことは考えるのも苦手だ。

 けれど、だからこそ、りんができないことがあればじゅんがする。りんが不安に思うなら、じゅんがその不安を投げ捨てる役割を果たしたい。

 二人でいる意味が、きっとそれなのだ。


「ね?」


 にかっと歯を見せて笑ってみせる。すると、りんも笑った。


「おじゅんに励まされるなんて、駄目な姉さんね」


 そんなことはない。りんはじゅんにとって自慢の姉だ。大好きな、誰よりも大事な姉なのだ。


「姉さんはもっとあたしに頼って。あたし、もうそんなに子供じゃないんだから」

「ええ、ありがとう」


 二人、笑い合うと屋台に手を添えた。じゅんが引き、りんが押す。台車になっているから、女子の力でも軽々と進めることができる。本来、屋台は担ぐようにできているか据店だ。こうしたものは珍しい。本当に、父は姉妹のためにこの屋台を設えたのではないかと思いたくなるほどだ。

 屋台を動かしていると、道すがら人が声をかけてくる。


「おや? 娘さんたち、なんの商売をしているんだい?」


 問いかけてきた小柄な老爺に、じゅんは笑顔で答える。


「四文屋よ。今のところ、買えるのはお饅頭や田楽ね。浅草広小路で商売を始めるから、おじいさんもぜひ来てね」

「ほぅ、近いうちに寄せてもらおうかな」

「ありがとうございます」


 りんは立ち止まって丁寧に頭を下げてから老人を見送る。

 浅草広小路にはこの時、すでにいくつかの見世があった。天麩羅、団子、蕎麦、汁粉、手軽に食べられるものが多い。これらもほぼ四文で商うのだから、商売敵ではある。

 この中にほとんど素人の自分たちが紛れてやっていけるのか――。


「売れるといいわね」


 二人の不安をりんが口にする。じゅんは屋台を停め、りんの方を振り返った。


「売れるわよ。あたしが売ってみせるから」


 意気込むじゅんを、りんは少しくらい頼もしく思ってくれただろうか。肩の力を抜くようにして微笑んだ。


「おじゅんが張りきっているのに、私がくよくよしてちゃいけないわね。うん、売りましょう」


 うん、と力いっぱいうなずいて、じゅんは再び屋台を引く。

 からからと、乾いた道を滑らかに車輪が転がる。それでも、まだ慣れない二人は人に屋台をぶつけてしまわないようにゆっくりと進んだ。

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