第2話

 いい加減で取り柄のないはずだった父は、それでも何故か人から好かれた。店賃を溜めては迷惑のかけ通しであった大家ですら、目に涙を浮かべて手を合わせてくれたのだ。男やもめが一人死んだ、ただそれだけのことに、長屋の皆は姉妹と一緒になって打ち沈んでくれた。


 そうして、ひと通りの葬儀を終え、白木の位牌だけが残る。母の隣に並べてあげた。これからは夫婦水入らずだとかなんとか、調子のいいことをあの世でも言っているのかもしれない。


 りんとじゅんは長屋に戻ると、二人してけば立った畳の上に転がった。張り詰めていたものが切れてしまって、何もしたくない。

 横になって互いの顔を見ていると、本当に二人きりになったということを改めて感じた。りんがか細い声で言う。


「ねぇ、正直に言うけれど、蓄えはあんまり残っていないから、働かないと食べるものはもちろん、長屋の店賃も払えなくなるわ」


 不幸に見舞われたからといって、世間が二人に合わせてくれることはない。それはこの世に生きる人々の半分くらいかそれ以上が不幸で、それに合わせていたら世の中がぐちゃぐちゃになってしまうからかもしれない。

 それでも、ほんの少しくらいは融通してほしいけれど。


 はぁ、とじゅんは寝転びながらため息をついた。


「姉さんはお針子をするの? あたしには何ができるかしら」


 自分で言うのもなんだが、じゅんはがさつだ。細かい仕事は向かないし、女子おなごのくせに喧嘩っ早いところもある。残念なことに、じゅんは紛れもなく父親似なのだなと、その父を亡くしてからしみじみと感じる。取り柄はあるのか、自分でもわからない。


 真剣に困ってしまったじゅんだったが、りんがその手を取った。


「それも含めてこれから考えましょう。大丈夫よ」


 黒目がちな目がフッと微笑む。りんはきっと、どんなことをしてでも妹であるじゅんを守ろうとしてくれる。いつもそうだった。だからこそ、じゅんはそれがかえって心配になる時がある。


「今日だけは何も考えずに休みましょう。考えるのは明日から。ね?」


 子守歌ほどに優しい声音に包まれ、じゅんは、うん、と呟いてまぶたを閉じた。

 悲しいことが押し寄せて、心が疲れている。今くらいは自分たちを甘やかしてもいいはずだ。



 翌朝、じゅんが寒さに身震いしながら起きると、りんはすでに起きて飯を炊き始めていた。口が一人分減ったからといって、手間は変わらない。減ったのは、一番たくさんの米を吸い込む口だったな、と思ったら妙に胸の辺りがちりちりと痛んだので、じゅんはかぶりを振って起き上がった。


「姉さん、おはよう。顔を洗ったら手伝うわ」

「おはよう、おじゅん。ありがとう」


 手ぬぐいを姐さん被りにしたりんは、火吹き竹を手にそっとうなずく。

 大根の味噌汁と沢庵漬け、白米。ささやかな朝餉の膳を二人で囲んだ。


 手狭な長屋のひと間によく三人もいたものだな、と二人になってからぼんやりと思う。狭いことは嫌なこと。そのはずが、広いと悲しい。妙なものだ。

 ぽりぽりと沢庵を齧る音が雀の声に混ざった。茶碗を片づけていると、戸の前に人影があり、声がかかる。


「おりん、おじゅん、ちょっといいかい?」


 この声は大家の嘉兵衛かへえだ。好々爺の嘉兵衛は、小さく細い。影を見ただけでも誰かわかる。りんはすぐに戸を開けると頭を下げた。


「大家さん、このたびは大変お世話になりました。おかげさまで葬儀も出せて、きっとおとっつぁんも喜んでいます」


 葬儀の手配などは大家が手を回してくれたのだ。香典も包んでもらった。

 長屋の大家は店子にとって親も同然である。世話を焼くのが大家の務めではあるけれど、だからといって感謝しなくていいわけではない。じゅんも畳に手を突いて頭を下げた。


「大家さん、ありがとうございました」


 大家は小さく萎んだまぶたを悲しげに下げた。若い頃は色白で、小柄なりにも女にもてたと聞くが、じゅんが生まれるよりもずっと前の話である。


「お前さんたちにすこぅし話があるんだ。上がらせてもらうよ」


 そう言って、大家は戸を閉めると上がり框に腰かけた。りんとじゅんは二人とも畳の上に座して大家の言葉を待つ。

 きっと、店賃の話だ。どれくらい溜まっているのかじゅんは知らないが、大家が大らかに待ってくれているのだとか。


 父を亡くした今となっては余計に、このままでは払える見込みが薄い。どうするつもりかとそれを問いに来たのではないだろうか。

 しかし、そうではなかった。大家はしょぼつく目を瞬かせた。


「富吉さんがこんなことになって残念だったね。富吉さんがいると長屋はいつも賑やかだった。あたしも随分笑わせてもらったよ。本当に話していて楽しいお人だった」


 父のことを惜しんでくれている大家の言葉に、じゅんは目の奥がかっと熱くなったけれど、今は泣いてはいけない時だと思えた。店賃を溜めたのはこちらの都合だから、泣いて同情を引くようなことはしたくない。


 じゅんはりんと共に覚悟をして大家の言葉を待った。

 大家は言いづらそうに、ぽつりぽつりと切り出す。


「いや、お前さん方は年頃の娘だから、それぞれの嫁入り先を世話してやろうかと思うんだ。女二人で生きていくのは大変だからね」


 店賃の話ではなく、嫁入りの話をされるとは思っていなかった。それはじゅんばかりでなく、りんも同じだったのだろう。珍しく驚きを顔に出していた。


 二人とも、いつかはどこかへ嫁ぐのかもしれない。けれど、それがこの時であるとは考えていなかった。父を亡くしたばかりで今後への不安はあるとしても、急にそんな身の振り方を自分に置き換えることができない。


 戸惑いが大きいのはもちろんのこと、じゅんはそれをありがたくは思えなかった。

 嫁いだら姉とは離れ離れになる。二度と会えないのではないにしても、たまにしか会えない。それが父と会えなくなった後だからこそ、ひどく悲しく感じられる。


 狭い長屋で身を寄せ合っていた家族がばらばらになるのだ。父がいない今、りんとは余計に離れがたい。身を切られるほど切実に嫌だと思う。


 りんはそんなじゅんの気持ちを察してくれたのだろうか。まっすぐに落ち着いた目をして大家に言った。


「お気遣い頂き、ありがとうございます。大事なことですから、おじゅんとよく話し合った上でお返事させて頂いてもよろしいでしょうか?」


 大家は、うんうん、と何度もうなずいた。


「ああ、そうしなさい。店賃のことは気にしなくてもいい。そこも考えてあるからね」

「何から何まですみません」


 りんが手を突いて丁寧に頭を下げたから、じゅんもそれに倣った。

 大家が去ると、二人は頭を上げて顔を見合わせる。


「姉さん、お嫁に行くつもりはあるの?」

「うぅん、まだよくわからないわ」


 と、りんはため息交じりに呟いた。

 どんな相手を大家があてがうつもりだとしても、りんはきっと気に入らない。たった一人を除いては。


「姉さんは徳次とくじさん以外じゃ嫌でしょう?」


 その名を口にした途端、淑やかなりんが目の色を変えてじゅんの口を塞いだ。声が大きいと言いたいらしい。


「おじゅんっ。隣に聞こえたらどうするの」


 声を潜めて窘めるりんの顔は赤かった。


 徳次は、右隣に住む錺職人で、居職のため長屋にいることが多い。この薄い壁を通して物音や話し声はわりと筒抜けになる。だからりんは焦ったのだ。

 むしろじゅんは徳次に聞かせてやりたかった。もたもたしていたら、りんは嫁に行ってしまうのだと。


 徳次はりんよりも四つほど年嵩で、いかにも職人らしく無口な男だ。余計なことは言わないが、そこがよいのかもしれない。優しさもさりげなく、男らしい。父の富吉も徳次のことは気に入っていた。

 りんが口に出して徳次を好きだと言ったことは一度もないのだが、そこは妹だ。じゅんに隠し事はできない。


「そういうあなたはどうなの? お嫁に行く気はあるの?」


 やっと口を押える手を緩めてくれたりんが問いかける。じゅんは首を傾げた。


「さあ? 考えたこともないわ」

「でしょうね」


 袂にいつの間にやら入れられていた付け文(恋文)を竈の火にくべるような妹だとりんもよくわかっている。無情だと言われるかもしれないが、口も利いたことがないような相手を見初めて好きだと恋焦がれる方が変だとじゅんは思うのだ。


 きっと、この子はこんな娘で、ああで、こうで、と勝手に思い描いているに過ぎない。そんなのに付き合いきれないのである。

 じゅんは真面目な顔をしてりんに言った。


「もし、大家さんが持ってくる縁談が姉さんと徳次さんだったら、あたしもその時は考えるわ。でも、それ以外なら駄目よ」


 りんはまた顔を赤くした。いつもは落ち着き払っているだけに、こういう時が信じられないくらいに可愛い。


「あなたね、軽はずみなことを言うのはおやめなさいね。私は、おじゅんが仕合せになれる今後を選びたいの。おじゅんを守ってくれるいい人がいるのならそれでいいわ。でも、おじゅんが違うっていうのなら、そうね、このまま姉妹でなんとか生きていかなくっちゃいけないのよ」


 守るというけれど、一体何から守ってもらわなくてはならないのだろう。じゅんはお転婆で、昔から男の子相手に喧嘩もしていた。女子にしては力もあると思う。頼りない男よりは余程間に合うから、むしろじゅんがか弱いりんを守ってあげなくてはならない。


「あたしは姉さんといられるのならそれが仕合せだわ。でも、二人で食べていくには何をしたらいいのかしら?」


 針子の手間賃はたかが知れている。じゅんはどこかに通いの女中奉公でも行くべきかと考えた。粗相をして暇を出されるかもしれないけれど、まずはやってみようか。

 りんは不意にじゅんの手を取り、目を見て優しくささやく。


「私もまだおじゅんといられると嬉しいわ。おとっつぁんがいなくなって、寂しいもの。でも――」


 父に商才はなく、たいして金を稼いできてくれるわけではなかったが、それでも女子でまだ大人とも言えないようなじゅんよりはましだった。りんも盾になってくれる父がいないのは心細いはずだ。


「何をして食べていくのか、それが決まらないことには嫁入りのお話を断るわけにはいかなくなるわね」


 りんが言うことはもっともであった。

 この日は二人、ああでもない、こうでもないと話し合いながら過ごした。


 その翌日のこと――。

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