王女様は妄想がお好き

月代零

第1話 王女様は覆面作家

 青白い月が、中天に冴え冴えと輝いている。周囲は寝静まり、静寂に包まれていた。時折、風が木々を揺らすさやさやという音が聞こえる。

 この王族の住まいである奥棟の入り口や外では、衛兵が不寝番を務めているが、何も起きなければ中の住人の眠りを妨げるようなことはない。


 そんな中、ぼんやりと明かりが灯る部屋が一つあった。

 妙齢の可憐な女性が、窓辺に置かれた文机に向かい、かじりつくようにして紙にペンを走らせていた。インク壺に羽ペンを浸け直すのさえもどかしそうに、翡翠色の瞳は輝き、白い頬は上気している。


「姫様、そろそろお休みになられては? ……殿下は、今夜もいらっしゃらないようですし」


 部屋の扉をそっと開けて、最後の一文を言いにくそうに言ったのは、彼女の侍女だった。濃紺の簡素なドレスに身を包んだ、二十代後半くらいの女性だ。


「何を言うの、ミシュア。おいでにならないのなら、夜はわたくしだけの時間よ。これを逃さない手はないわ」


 一瞬だけちらと顔を上げて侍女に応えたこの部屋の主は、頬に落ちてきた柔らかく波打つ艶やかな亜麻色の髪をかき上げ、再び机に向かう。入浴も既に済ませ、白い夜着に身を包んでいるが、寝台に入る気はまだなさそうだった。

 それを見て、ミシュアと呼ばれた侍女は、深々と嘆息した。


「ほどほどになさらないと、お肌が荒れてしまいますよ」


 ミシュアは御年おんとし二十一になる姫と歳が近いこともあり、二人でいる時は自然と友人のように気安く接している。


「わかっているわ。でも、今いいところなのよ。忘れないうちに書き留めておかなければ」


 ミシュアは、毎度のことながら主が言っても聞かなさそうなことを悟ると、邪魔をしないように退室した。


 先程から熱心に書き物をしているこの女性は、アルフェリア大陸北方諸国同盟が一つ、エグレット王国の王女、シャルロッテという。つい先日、かねてからの婚約者だった同盟国レーヴェの第二王子、ユリウスと正式な婚姻の儀を交わし、レーヴェの王宮に居を移したばかりだ。

 しかし、夫となったユリウスは、初夜こそ姫の寝所を訪れたものの、それ以降は政務が忙しいのを理由にして、ほとんどやって来たためしがない。


 普通の女性なら、自分が気に入らなかったのだ、他に心に想う相手がいるのだと嘆くようなところだが、彼女はそんなことはしなかった。これ幸いとばかりに、自分の趣味に労力を注いだのである。


 シャルロッテ姫の趣味――それは、小説を書くことだった。


 彼女の故郷、エグレットの宮廷夫人たちの間では、恋愛を描いたロマンス小説が流行していた。書き手は市井の作家や、暇を持て余した貴人など様々で、素性が知られている人間もいれば、どこの誰か正体不明の作家もいる。

 その中でも屈指の人気を誇る覆面作家ユーフェミアの正体が、このシャルロッテ姫だった。暇さえあれば、周囲の人間を題材にし、あれこれと想像――あるいは妄想を繰り広げている。姫の野望は、このレーヴェでもユーフェミアの名を轟かせることであり、そのために新作をしたためているのだった。


 だが、これは絶対の秘密だ。知っているのは、エグレットから一緒に移ってきた、姫の幼少期から長く仕えている侍女のミシュアと、故国に残っている親しい侍女や友人何人かだけ。特に、男性陣には知られてはならないと、彼女たちは硬く結束し、作品の発信元が割れないよう、細心の注意を払っていた。


 この時代、社会の実権を握る男性たちの間では、空想の物語は価値のないものとされていた。物語など、庶民が子供に語って聞かせるおとぎ話程度のもので、重要なのは歴史書や技術書、予算執行や商品売買の記録など、事実を記したもののみ。神話や伝説を謳った詩や演劇もあるにはあるが、実在しない人物のありもしない空想物語など、受け入れる下地は皆無だった。茶会で囁きを交わしながら小説を読みふける己の妻や恋人、娘たちを、男たちは怪訝な目で見ていたのだ。


 しかし、それは表向きの理由で、本当に男性陣に見られてはならないと思う理由は、小説が扱う題材にあった。

 流行りの小説の中に描かれているのは、麗しい騎士と姫君の恋物語が目立つが、他に人気を誇る作品には、王子と騎士の禁断の恋や、はたまた姫と女騎士の秘めたる想いを描いた、一般の人間から見たら眉をひそめるような内容のものも多くあったからだ。まして、一国の王女がそんなものを書いていると知られたら、醜聞になってしまうと思う程度の常識は、姫にもあった。だからこうして、こっそり書いている。


 そんな彼女は、この国に嫁いで何か新しい着想を得たのか、暇さえあればペンを取っている。


(……ユリウス殿下、もう少し通ってきてくださらないかしら……)


 新婚の夫婦がこのような状態でいいのかという心配もさることながら、このままでは姫の妄想が止まらなくなってしまう。

 忠実な侍女のミシュアは、主人の意思を尊重しながらも、控えの間でそっと溜め息を吐くのだった。

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