to after.

判家悠久

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 私は浦安の元町に、入社配属から長らく住む。新浦安の新町とは路線バスに乗って軽く15分ばかり掛かるので、やたら滅多らには行かない。東京に出た方が早いせいもある。

 ただ新浦安に行けば、大抵のものは揃う。例えば書店の有隣堂など。


 生粋の浦安の元町も長いなから、私は新浦安寄りの浦安市役所近辺に引っ越す事にした。

 楽器を置くには部屋も狭くなったし、何よりは激務の会社とアパートの往復で、せめて寛げるスペースは欲しかったので、1LDKから2LDKの部屋に移った。家賃は2万円程上がったが、小さな音楽スタジオが室内にあると思えば、十分ペイは出来た。


 新アパートは東西線地下鉄駅には遠いものの。折良くのタイミングで、品川駅から幕張に部署異動となったので、距離短めのバスと京葉線新浦安駅に乗れば手早くで通えた。

 近くなった分、何もかもにゆとりが出来た。音楽も制作出来るし、読書も出来る。ケーブルテレビにも入ったので、HDRに録画したコンテンツも溜まって行くも適度に消化出来た。

 そうとは言え、コストカット大前提の理不尽な評価給制度がなければ、多分人生で一番充実はしていたと思う。


 そう、生活の起点は、新浦安駅となる。通勤。東京への買い出しの入り口。何よりは日曜日の2時間ウォーキングの締めの場所となる。


 その中でも通ったのは、コンビニを除けば、有隣堂アトレ新浦安店が一番多かった筈だ。

 楽器も書籍も大凡渋谷に行けば、新しい出会いがある。無ければ秋葉原に行くと補完出来る。当時のややギークの行動範囲は、その2拠点あれば良い。

 それでも、モール2階、その縦に長く半分を占める中大規模書店クラスの有隣堂アトレ新浦安店に寄るのは、締めの立ち読みと言うのだろうか。

 大凡の雑誌を眺めては、仕事と趣味に伊吹を与える。新アパートに近い分、時間は半ばリミットは無いので、気になる記事が4ページあれば大体購入する。そう当時は、インターネットは上り坂で、SNSもそこ迄充実していなかったので、情報の入手は書籍がほぼだ。


 その有隣堂アトレ新浦安店を後にすると、同2階のモールのユニクロ眺め、ビジネスカジュアルをちょっと考える。

 その後に向かう場所は食品店。1階のスープストックでカレーをテイクアウトして、その流れでロック・フィールドでサラダ買う。ここのもう一つのバージョンとしてはダイエー側のエヌ・ファーストで、岩手県産米のもっちり感溢れたオニギリを買い込むという手もある。

 当時としては、最大限の贅沢な時間だった。


 総じて新浦安周辺のクオリティが高いのは、ディズニーランドも近いし、ヤシの実が並ぶ高級マンションが立ち並ぶので、ニーズを取り入れた結果の満足度の高い浦安の新町になったと思う。


 そこ迄持ち上げて、浦安の元町はどうした。いやそれはそれで、散歩の都度に老舗はあるし、質素な看板に隠れた魚の美味しい食堂もある。

 何よりは、入社同期の同僚で仕事終わりには、あらかた食事処を開拓し続けた。大凡の外れはないのは、元漁師町なので、お客様の目に見えぬプレッシャーで昇華した効果もあろう。


 いや、話はまた新浦安に戻して。新浦安には大きな書店が二つある。既出の有隣堂アトレ新浦安店と、別棟に三省堂書店新浦安店。三省堂はやや登るのでちょっと足が遠くなる。有隣堂は新浦安駅にほぼ直結してるので入りやすい。

 その遠因だろうが、三省堂書店は止む無く撤退する。ただそれは、後の大災害の前の頃合いだったかもしれない。



 2011年3月11日。東日本大震災は、首都圏でも前触れもなく、ただ発生する。

 報道でもやや聞こえたと思うが、浦安の液状化現象。これは、地面が強く揺さぶられると地面が液体化する現象だ。

 そんな馬鹿なは、軽く12年経っても半信半疑だろう。浦安の元町は昔からの地面があった場所で被害はやや。新町は埋め立てに次ぐ埋め立てで、浦安市内の震災被害86%は、そう、ほぼ新浦安が直撃する。


 これは、私は新浦安全般をウォーキングコースにしていたので、残らず被災を見ている。

 歩道のマンホール部位は丸ごと天に向かって起き上がる。いつものアイスを買うコンビニは、液状化現象で沈む。マンション始めビル類の軒並みは、地盤沈下で入り口が軽く1m近く剥離。そして東京湾を眺める絶景ポイントの護岸周辺は、怪獣が25匹同時に上陸したかの様に、海岸線がぐしゃぐしゃになる。

 揺れた時間は1分も無いのに、そんな有様だ。戦争の大爆撃でもここ迄抉れない。自然の猛威とはを、忘れては行けないと思う。


 何よりは、新浦安駅周辺は酷い。地盤沈下で1m剥離され、2階への回廊に上がる事も、ただ危険で、間も無く立ち入り禁止になる。

 動脈の京葉線新浦安駅があるので、全てをロックアウトとは行かないが、立ち入り禁止のテープにロープが、やたらめたら張りめぐされる。

 ここで一番腹が立つのは、新浦安の被災状況をデジカメとビデオに収める方がままいた事だ。明らかに日帰り出来る被災地を満喫する様相でもあったし、あんたねは、それでも、あ、の口の開きしか出来ない。改めて小心者だよ、私はね。


 こんな壊滅状況で、新浦安大丈夫かは、大丈夫では無い。大津波が無いだけましだろうも。どう考えても復興が思いつかなかった。

 中でも新浦安駅周辺は、ベッドタウン唯一のライフラインの為、営業し続けるしかない悩ましさ。ただ私は、余りにもの変わり様に動揺を隠せなかった。

 たった1日でここ迄、暗澹たる状況になるか。その時、うっすら考えた。もう次は無いなと。

 ここ迄の人生で、何度も死に掛けた。それでも生きている。ここで得た教訓としては、撤退も勇気も一つだ。

 私は、日々重機が入って復興して行く新浦安を尻目に、1年半後に会社を辞め、地元の青森に戻る。


 大きいのは東日本大震災の経て、会社の本性が見えてしまったので、それで良かったとは思っている。

 私の輪番停電時の通勤事故も無しにされたし。仙台に赴任していた会社の知り合いの何人かが、連絡取れませんのあっさり具合はほとほとだ。赴任させておいて、その言い草は何処から出てくるか、怒りしか湧かない。生存確認出来ました。それは一体全体何日後なのだ。

 そう、何もかも潮時だったと思う。あれから12年も経って、そういう出来事はすっかり忘れて、今は株価が上がって順調らしいが、良くも悪くも箝口令が敷かれてか、社内の噂は一向に入って来ない。そういう体制にならざる得ないは、当時から分かっていた黒い体質だ。



 そう、あの震災前後で「有隣堂しか知らない世界」があって、R.B.ブッコローもいたら、私の心の拠り所も良いところにあったと思う。新浦安頑張れ、大変だけどあともうちょっとだけ。「有隣堂しか知らない世界」がもし配信されていたら、そんな励ましの言葉が溢れていたと思う。


 そう、皮肉なのは、東日本大震災を経て、動画の重要性が世界的に必要になった事だ。

 たった12年で、携帯端末の動画は最高品質になり、今では映画のフィルムにも転用される。東日本大震災が無ければ、世界は未だ霞んだ世界の中にいた筈だ。

 コロナ禍迄含めて、緊急事態がなければ、人間は気持ちが起きないのは漸く分かる。でも、たまには新浦安の復興の事も触れて欲しいな「有隣堂しか知らない世界」。





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