第3話

ひろしは、まるで水中からもがき苦しみながら、水面に顔を必死に出すような格好で泳ぎ回っていると、そこがベッドだったと暫くして気付き、辺りを見回す。

ベッド脇の時計は四時半を表示している。

悪夢、それも二回も夢の中で不気味な老婆に遭遇したことで、ひろしは日課のジョギングを諦める事にした。

あの公園をたとえ通らなくても、なんだか気味も悪いし、睡眠をとったお陰で逆に身体は疲労感を増しているように感じたからだ。

出勤の時間まで二度寝しようとも考えたが、また悪夢にうなされてはかなわない。

そんな思いがよぎったひろしは、汗に濡れた浴衣を脱ぎ捨てると、シャワーを浴びて一息をつき、少し早いがスーツに着替えて部屋に備え付けのポットで湯を沸かすと、インスタントコーヒーをつくる。

香ばしい薫りが部屋に満ちて、疲労感に支配されていた身体も覚醒させてくれそうだ。

そんな事をぼやっと考えながら、ひろしはテレビをつけて、その音を聞き流しながら早朝会議の資料に目を通す。

コーヒーをひとくち含むと、沸かしたての熱に口内が痛みを覚え、香ばしく刺激的な香りと苦味が口の中に広がり、ここが夢の中で無いことを証明してくれているようだった。

朝食はビュッフェスタイルで六時からだったなと思い出したひろしが時計を確認すると、五時五十 分を告げていた。

地下の食堂に行くには、エレベーターを使うんだよなと、先程の夢の記憶がよぎるが、この後の仕事にも差し支えてしまうからと考えたひろしは、足取りも重く部屋を出てエレベーターへと向かう。

ちょうど他の部屋からもサラリーマン風の男が出てきており、ひろしと同じく食堂に向かうのか、お互いに軽く会釈を交わして、一緒に乗り込む事になった。

ひろしは人と乗り合わせる事が心強く嬉しかったので、声をかける。


「出張ですか?」


「え、ああそうです貴方も?」


「はい、そうなんです。あっ、空調暑く無かったですか?」


なんて、他愛もない話を交わしながら、ひろしはエレベーターの中を見回すが、特に異常や問題も無く動き出し、地下へと降りていく。

何事もなく、エレベーターのドアが開くとそこはすぐに食堂と繋がっており、焼きたてのパンの香りと柑橘類の香りが鼻をくすぐり、ひろしの胃を刺激する。

オープンには少し早かったようだが、食事は既にほとんどが用意されており、ホテルマンが二人の客を確認すると、


「少し早いですが、お席も用意出来てますのでどうぞ」


と勧められるまま、ひろしと同乗した男は食事の並べられたテーブルの傍の席に案内される。

自分の席を確保したひろしは、ズラリと並べられた食事を取りに席をたつ。

焼きたてのパンに、オレンジや林檎等のフルーツがみずみずしい切り口を見せて整然と並べられ、硝子の大きな器に盛られたヨーグルトからは爽やかな香りが広がり、三種類のシリアルの隣には牛乳がピッチャーに並々と入っている。

ひろしは適当にパンやフルーツを皿に取り分けて自分の席に運ぶと食事を始めた。

隣の席でも男が食事をはじめていて、『さっきは心強かったよありがとう』なんて心のなかで礼を言いながらパンを口へ運んでいると、エレベーターのトビラが開く。

そこには、夢で手押し車に描かれていたものと、全く同じ菊の花柄がプリントされた洋服に全身を包んだ老婆が二人立っていた。

ひろしは口をあんぐりと開けたまま固まってしまい、パンを落とそうになるが、ホテルマンが老婆を席へと案内するのを見て、ホッと胸を撫で下ろした。

老婆は奥の席なのか、ひろしの脇を通りすぎる。

その時、老婆からニカッとひろしへと笑顔を向けられ、背筋にぞわぞわとしたものが走り抜ける。

老婆に悪意が無いとは思ったものの、ひろしはテーブルに持ってきた食事口へ詰め込み、オレンジジュースで胃へ流し込むと、隣の男に会釈して席をたつ。


「それではお先に」


そう声をかけられた男はひろしの顔を見て、


「ああ、同じ階ですし私も、もう食べ終わりますので一緒に行きましょう」


そう言われてしまったので、老婆のことが少し気にかかり、気味が悪かったが、タイミングを合わせてエレベーターへと乗った。

沈黙が嫌になり、ひろしが話しかける。


「あの、さっきのお婆さん派手でしたね」


男は少し考えて答える。


「え?ああ、花柄のお婆さんですか?まぁ全身というのがねぇ…」


同意してもらったひろしは嬉しくて続ける。


「ええ、それも二人ですよ。あの派手な菊の花柄を全身でしかも、ペアルック?双子コーデと言うんですかねぇ」


すると、男は驚いたようにこう返答する。


「え?双子コーデ?お婆さん、お一人でしたよ…」


エレベーターは沈黙の中、八階へと到着する。










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日課 業 藍衣 @karumaaoi

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