1−5
通路に立て掛けられた時計の針は、深夜二時を超えていた。
消灯時刻はとうに過ぎていて、時折来ていた看護師も通る気配もない。
「…………別のが、いるかもしれないけど」
灯りが可能な限り消された二階ロビー。通路の窓に青い月の光が差し込む通路。その壁に並べられた丸椅子にわたしはいた。
座る、というより丸くなっていた。膝を抱えて、足の踵を椅子に乗せる。顎を寄せた膝にのせて、両手で足を抱える。体育座りのような体勢だった。
シン、とする薄暗い空間。身震いするほどの寒さが突き刺さる。最低限の暖房は入っているだろうが、冷え切った通路を溶かすほどの恩恵はない。
わたしはポケットに手を入れて、オイルライターを手に取る。かちん、と軽快な音を立てて、火を点けようとして……
「やめてよ。薄幸な童話を思い出す」
わたしは顔を上げる。宇野先輩が、眼鏡の位置を直しつつ、
「あの話は嫌いなんだ。特に最後。手遅れになって、幸せもなにも無いのにね」
差し出される缶ジュース。ホットのあずき缶だ。
……ヴィルヘルムさんもそうだが、騎士団の人は味覚が少し偏っている気がしている。
プルタブを掻いて、開ける。湯気が立ち上り、甘い香りを吸い込む。
「ありがとうございます」
「いいよ。日中はなにもしてあげられなかったし」
言いながら、宇野先輩は自分の分……練乳がたっぷりと入ったコーヒーという名の甘未……をあおる。わたしもあずきを、ちびちび飲む。
「彼女は?」
先輩の一言に、わたしは頭を振った。
「すいません、いなくなりました」
「いなくなった?」
「なんか、怒っちゃったらしくて……」
「ああ、だから気配がなかったんだ」
軽い相槌を打って、缶コーヒーに再び口をつける。
「わたしが、原因かもしれません」
先輩は目だけ、わたしへと向ける。わたしは屋上での経緯を話した。
「────成程ね。うん、それは緋茉莉ちゃんが悪いかな」
缶を揺らしながら、先輩は軽くそう言った。
「存在意義を問うのは、人の課題だよ。答えにしろ放棄にしろ、自分が決めるものだ。緋茉莉ちゃんはそれを否定したいんだよ、自分で自分をね。人を助けるのだって、その代替行為でしかない。だから怒ったんだよ。口が悪くて判りにくいけど、根は真直ぐだから、彼女」
「……そんなに、自分って好きになれるものですか」
「どうだろう。僕は神に身を預けた身だ。問題を避けたともいえる。でも僕は、今の自分を否定しようとは思わない」
「……そうですか」
わたしは口にしてあずきを飲む。冷めた甘いザラザラとしたのが、口の中に残る。
すると、先輩は小さく笑った。
「変わってないな、きみは。不都合な答えが返ってくると、すぐ口数が減る」
「……元々、少ない方です」
残り少ない缶へ口をつける。飲むためではなく、口が開くのを防ぐためだ。
「懐かしいね。中学の屋上でも、タバコを加えていたっけ。もうやめられた?」
「依存するほど吸えたものじゃないですよ、アレ」
同感だ、と嬉しそうに言う先輩。
「いや、ごめん。つい懐かしくてね。こういうことしてると、人付き合いは短くてさ。偶然とはいえ、きみと再会できたのは嬉しくもあるんだよ」
缶が揺られる。からから、と残っているコーヒーが揺れる音が聞こえる。
「緋茉莉ちゃんはあの時から変わっていない。良くも悪くもね。だから迷いやすい。迷って道が分からないから、否定してしまう」
でも、それでいいんだよ、と先輩は付け足す。
「月並みなことしか言えないけど、それが当たり前なんだと思う。悩んで迷って立ち戻って、また見つけるものなんじゃないかな」
「曖昧ですね」
「人を導けるほどではなくてね。僕もまだまだ、ということさ」
笑う先輩。少年が浮かべる年相応のあどけない笑み。
わたしは静かに、残っていたあずきを口の中に流し込む。口に残るわだかまりを流し込むよう、一気に。
────それができたら、どれだけよかっただろう。
笑い飛ばして、明日を気のままに選んでと思えたら今のわたしは無い。
問題は、もっと根本的。
先輩は否定したいと言った。半分は当たっているだろう。しかし、違うのだ。
否定とは、向き合って反発した結果に起きるものだ。わたしは違う。そもそも、向き合ってなどいない。
逃避。その行き先が死への願望。現実から逃げたくて、更に暗い道を辿るだけ。
そこに枝分かれした道は存在しない。あるのは、虚無だけだ。
どちらにしても袋小路。ならば早く終わってほしい。わたしは…………
(──なら、どうして、手を握ったんだろう)
唐突に浮かんだ疑問。今まで気にも留めていなかった、しかし、大きすぎる矛盾。
わたしは、一度死んでいる。あの夜に、わたしの望みは果たされている。
なのに、なんでわたしは、彼女の手を握ったのだろう?
考えようとして、缶から口を離した、瞬間────
「ねぇ。僕たチと、遊ぼウ、ヨ」
…………無邪気な幾多の声が、冷え切った身体を覚醒させた。
空間が張り替えられたような異質感が、わたしに悪寒を与える。
蛍光灯の光が消え、人工的な明かりは全滅した。二階フロアを照らすのは、曇り空から覗く病的なまでの青白い月の光。空調もやられたのか、暖房の温かさは急速に失った。先程までの寒さとは別に、仄暗い世界が異常な冷たさを与える。
わたしは目を、前へと向けた。
受付がある中心地。そこに浮かぶ、一〇の白い影。折れた白百合を思わせる、だらんと垂れた上半身。そして────死を連想させる髑髏の双眸が、わたしたちを見据えていた。
「先、輩────」
震える唇で、やっとの思いで呼ぶ。前に佇む先輩の表情は窺えない。じっと、白い髑髏と真直ぐ対峙している。
「階層全体に結界を貼ってる。暫くの間、ここで起きることは気付かれない」
先輩は一歩、前へと踏み出す。わたしは声を出そうとして、
「緋茉莉ちゃんはそこから動かないで。僕が言ったこと、覚えてるよね?」
遮るように言い放つ。力強い拒絶の言葉に、わたしはたじろいでしまう。
分かっている。その拒絶は優しさだ。彼女がいない今、わたしは本当に足手まといでしかない。最近までつまらない陽だまりにいた人間が、夜の理に順応できるはずがなかった。
わたしが言葉を飲み込むと、先輩は振り返る。いつもの微笑が、顔に張り付いている。
「大丈夫。あれくらいなら、僕だけで十分だよ」
手を振って、踵を返す先輩。
そして彼は、死した白百合と対峙する。
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