1−4

 病院を駆け回っても、スカーレッドはいなかった。

 考えてみれば当然だ。相手は幽霊で、かくれんぼには慣れているだろう。こっちが幾ら探そうと、姿を消されてはそれまでだ。


「なにそれ……ズルいよ、それ」


 一人愚痴って、わたしは通路の壁に肩を合わせる。開かれた窓から入る風が、ほてった身体を冷ましていく。


「どこにいるんだろう、あの人」


 呟いてみても、出てくる影はない。

 自然と深いため息が出た。走り疲れた体を窓際の壁に寄せる。ひんやりとした気温が熱った体を冷ます。

 幾分か落ち着いて、窓の外に目を走らす。視線の先には、庭があった。

 この病院の形は□のようになっていて、真ん中に中庭がある設計だった。病院の数少ない憩いの場も、寒空の下では人の影はない。


「────ん?」


 いや、あった。

 中央の木の下で、しゃがみ込んだ人が、いた。

 じっとそのまま、動いていない。


「…………」


 わたしは通路へ目を戻す。通行人はいない。看護師どころか、お見舞いに来ている人でさえもいなかった。

 再び、視線を中庭へ。相変わらず、しゃがみ込んだ人以外の影はない。

 大丈夫だろうか、と不安が渦巻く。

 今いる通路を下りれば中庭には直通している。だから行こうと思えば行ける距離だ。


「……………………」


 けど、本当にそうだろうか。

 本当はただ疲れているから休憩しているだけで、別に普通かもしれない。

 それに今は人探しの途中だ。あの人が、病院を出る可能性もある。そうなる前に見つけないといけないし。

 ここは病院だ。素人が行って何もできないよりかは、専門家を呼んだ方が遥かにいい。

 わたしは歩き出す。看護師か誰かを見つけて話せばいい。それだけだ。


「………………………………」


 ふと、足が止まる。

 足音が遠くまで響く。まるでわたしだけが、取り残されたように。

 再び視線を中庭に。相変わらず、人は来ない。


 そして、視界がひっくり返る。


 落ちた桜の花が、無機質な道路を彩る。タイヤ痕が痛々しく残っていた。

 ……黒い道路には、赤い花が咲いていて。

 そこで、切り替わった視界は終わった。

 手のひらで両目を覆い、見ないようにした。

 呼吸を繰り返す。落ち着け、と何度も繰り返す。

 手を顔から話すと、病院の通路が戻ってきていた。

 動かそうとする足が重くなる。胸の真ん中がむかむかして、気分が悪い。

 その原因は分かってる。けど、だけど────


「…………………………………………うん、行くよ」


 胸のわだかまりを吐き出すように、わたしは息を吐いて、小さく呟いた。

 身体を翻す。下へと繋がる階段を足早に下っていく。先程まで重かった足が、先程よりも重く感じた。

 

 中庭に出ると、迎えるのは風の冷たさだ。

 植えられた木の葉っぱは全て枯れ落ちており、素寒貧の状態だった。その下には、しゃがみ込んでいる人。

 近くで見ると、丸顔のおばあちゃんだと分かった。とても優しそうな顔をした人だった。

 わたしはその人へ、おそるおそる声をかけた。


「あの、大丈夫ですか」


 すると、おばあちゃんは顔を上げて、微笑を浮かべる。


「ああ、はい。大丈夫ですよ。……あら、もしかして心配してくれたの。ありがとうねえ」


 そう言って、おばあちゃんは、すっ、と立ち上がった。


「えっ」

「病院ってずっと寝てばかりで身体が痛くなるのよねえ。だから偶に歩いているのよ。で、ちょっと休憩していただけ。ごめんなさいねえ、心配かけちゃって」


 ほほほ、と笑うおばあちゃん。わたしも、笑顔を浮かべることにした。上手く、笑えている自信はない。

 ああ、やった。胸を締め付ける感覚がくる。渦巻く後悔ばかりが、わたしに突き刺さる。


「そう、ですか。じゃあ、よかったです」


 ぎこちなく言って、わたしは背を向けた。元気だと分かれば、ここにいる意味はない。

 わたしは、逃げるように去ろうと歩いて…………


「あら、ありがとう。あなた、いい子だねえ」


 ぴた、と足を止めた。

 振り返らない。知らずに深く息を吸いこむ。深く吐いて、白い息が溶けていく。


「いえ、そんなんじゃ、ないです」


 ただ、それだけを言った。

 その言葉を咀嚼できないから、吐き出した。


『────すぐ戻るから、待っていてほしい。君は、いい子なんだから』


 あの人の声が、蘇る。

 広い一軒家の玄関。太陽の光に射された体は、ひどく黒くて陰鬱だった。

 中身のない口約束を、何度聞いただろう。何度、裏切られただろう。待っていたのに、帰ってこなかったじゃないか。

 なにが、『いい子』だ。

 その言葉を聞く度に、吐き気がする。


「……わたしには、そういわれる資格も、ありませんので」


 今度こそ、歩き出した。この場から一刻も早く去りたかった。何もかも、ここから置き去りたいから、振り向きたくもなかった。


「そうかねえ────でも、来てくれたじゃないか」


 灰色の空とは場違いな、明るい声が背後から届く。


「こうやってしゃがんでいると、気付く人はいる。けど、そこまで。『誰か行くだろう』、『誰か気付いているだろう』って先に行ってしまうもんさ」


 それは、分かる。分かってしまう。

 わたしも、さっきまでそう思っていたから。


「もう慣れたから、別に何とも思わないけどね。貴方みたいに来てくれる人がいると、やっぱり嬉しいものだよ」

「…………」


 わたしは沈黙で返した。卑怯なやり方で自分を責めたくなる。だが、今ここで口を開けようとしたら、きっと酷いことを言ってしまう。


「大切にしなさいね? 良い人というのはね、誰かの為に立ち止まれる人なんだから」


 背後で、柔和な笑みを浮かべるお婆さんが想像される。……その直後。

「あっ!」と若い女性の姿が忙しない足音とともに近づく。

 浅い溜息を吐くのは、恐らく看護師だろう。背後で何かしらお婆さんと話している。「診察のお時間が……」、「おや、もうかい?……」といった言葉が聞こえてくる。

 わたしは静かに、中庭から室内へと戻ろうとした。


「それじゃあね。また今度、お礼をさせてね?」


 背中にかけられた言葉を最後に、背後の声が遠くなる。耳に届くのは吹き抜ける冷たい風音だけ。

 わたしは、立ち止まっていた。蛍光灯が作った淡い影が、哀れに見える。

 歯嚙みして、進む。中庭に振り向かず、闇雲にずかずかと歩き出す。

 ただ、逃げ出したい一心で。

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