1−2
わたしは、前方の女の子に視線を向ける。
胸に深々と刺さる白剣。彼女は忌々しげに……信じられないと言いたげに……白剣へと視線を落としていた。
小刻みに震えて、膝を折る。荒い呼吸を繰り返す彼女に、宇野先輩は目を向ける。温厚な人柄からは考えられない、冷たい目。
「頑丈だな。並の死霊なら、今ので消えてる筈だけど」
「コ、ノ……!」
左腕を伸ばす幽霊。だけど。
何かが、放物線を描いた。遅れて、ざしゅっ、と風切り音が鳴る。
もう一本の白剣が、左肩から腕を切断した音だ。
「ギッ────!」
「手間をかけさせるな。こういうのしたくないんだ。グロいから」
先輩はそう言うと、わたしへと振り返った。
「せん、ぱい」
わたしが言うと、彼は、
「傷の具合は、どう?」
いつもの柔和な笑みを浮かべる。温厚で優し気な、いつもの先輩だ。
でも、その言葉は変だ。具合も何も、今のわたしは……
「あれ……?」
いたく、ない。身体を起き上がらせて、お腹を捲る。
「傷が、ない?」
臍の左横にできていた刺し傷が、塞がっている。完全ではない。でも、刺さっていた破片も、ない。
「聖蹟は癒しを本分とした力なんだ。完全にとはいかないけど、それなりにはなるよ」
話す宇野先輩……捲った瞬間、顔を逸らした……を見る。確かに、身体を動かすとまだ痛いけど、さっきの激痛に比べたらマシだ。
わたしは立ち上がる。ふらっ、と身体が揺れる。
そうか。傷は塞がったけど、流れた血は戻らない。今のわたしは、貧血に近いのか。
「無理はしないで。まだ辛いようなら……」
宇野先輩は言いかけて、止めた。
わたしは先輩を見ていなかった。白剣に貫かれた幽霊……苦しげな少女へ目を向けている。
「あの、彼女は……」
知らない人ではない。表面的とはいえ、交友はあった。
「アレは、僕の方で手を下す」
宇野先輩はそう、断言した。わたしの意見を挟み込ませない、冷徹な色が声に帯びている。
「アレは悪意が集ってできた総念体だ。放っておいたら人を殺しかねない」
彼は顔を戻した。これでこの話は終わりだ、と告げるように。
「世も末だね。霊が、別の霊に取り憑くなんて」
末尾にそう、付け足した。
霊が、霊へと取り憑く?
疑問を浮かべて、続きを言おうとして、
バリン、と破裂音が鼓膜を震わせた。
わたし達は音のした方へ向く。
二本の白剣が、床へと叩きつけられていた。
「なにっ?」
だらん、と腕を下ろす少女。浅い呼吸を繰り返して、顔をこちらに向ける。
暗く、青白い顔。見据える瞳には、黒い憎悪。まるで、怪談話にでる幽霊そのものだと、おぼろげに思う。
「本当に頑丈だな。黙ることもできないのか」
「殺ス……コロしテやる。男ヲ引き裂イて贓物ヲ、その女ニ食ベさセてヤル」
「おまけに趣味が悪い。そんなこと、僕がさせるとでも?」
傘の先端を叩く。円陣の文字に、青白い光が走る。
瞬間、再び白剣が空中に現れた。
合計、七本。廊下の天上の空間を埋めるくらい、並列して切先を向ける。
「嘗めるなよ。その程度で僕は手折れない」
「────」
威勢が、消えた。憎悪が瞳から失せて、目が泳ぐ。
数歩、後ろに下がる女の子。しかし、どこにも逃げ場はない。白剣はいつ射出してもおかしくないし、彼女が逃げようとした瞬間に追随して、止めを刺すのは確実だった。
「まっ────」
「口を開くな聞く耳が腐る。亡霊が、現世へと留まるな」
白剣が向く。尚も喚く亡霊たちに、白剣は白く煌めく。
七つの光が、放たれる。直線。剣が一つに収束するように、彼女の身体を貫いて……
「────ああ、全くもって同感だ」
……その筈、だった。
炎が、廊下一面に踊り流れる。
熱が、冬の冷たさを浄化させる。紅蓮の明かりが、暗闇を燃やし尽くす。
そして、五つの白剣が、同時に破壊された。
ナニカに、紙がビリビリと破けるように、引き裂かれた。
白い破片が、炎に呑み込まれる。それを見下ろす、赤い女の子。
「忌々しい。二度も、殺されかけるとは。酷く劣ろえたものだ」
……それは、今まで聞いたどの声とも、違った。
こんな、吐き捨てるように呟く彼女を、わたしは知らない。
「聖蹟を、打ち消した!? 雑念にそんなこと、できるはず────」
宇野先輩の顔からは、先程までの冷徹さは消えていた。渦巻く炎を見て、驚愕を隠さずに口を開ける。
「まさか……取り憑かれた霊の、精神が!?」
声を上げるが、彼女は先輩に目を向けない。
いや、そもそも。始めからわたし達を見ていない。
彼女がその目に映しているのは、自分の足元だ。
『ば、かな。お前は、僕らが取り込んでっ……!』
「驚くことか。寄生虫に寄生されたら、誰だって飛び起きる」
異変を感じたのか、幽霊たちの『声』が彼女へと放たれる。
そこでようやく、彼女は会話を始めた。
「眠っている間にやってくれたな亡霊。この代償は高くつくぞ」
彼女は笑みを浮かべた。自嘲気味な、悲しい微笑みを。
「貴様らだけは余りに酷だ。だから望み通り、一緒になってやる」
炎が、一層激しくなる。勢いが苛烈さを増して、引き戸やタイルを溶かしていく。
火の手は廊下全体へと回っていた。でも、わたしと先輩は炎に呑み込まれることはなかった。わたし達を囲う『セイセキ』が守っているのもあるかもしれない。
……火が、渦巻く。紅蓮の火柱。竜巻のように聳えるソレは、炎を波打ち立たせ、わたし達が近づく余地をなくした。
そして。
その中心にいる赤い少女に、静かに炎が乗り移った。
『ギ、ィィアアアアアアアアアアアアアアア‼︎‼︎‼︎‼︎』
絶叫。少女に乗り移る悪霊たちが、身を捩らせて悶え狂う。
「貴女、自ら消滅する気ですか!?」
わたしが目の前の光景に茫然とする傍らで、いち早く宇野先輩は理性を取り戻した。
青い円陣が輝く。先輩は手を彼女に向け、
「誰が手を出せって言った?」
少女の声が、救いの手を拒んだ。
彼女は乱暴に片腕を振るう。
炎が奔る。先程までのものとは違う……殺意が籠った火の波。
「っ!」
息を呑む先輩は、慌てて炎へと手を向けて、青い盾が現れる。
火の波が、真っ二つに割れる。瞬時に展開した盾に遮られ、波にわたし達が攫われることはなかった。
火の勢いは止まらない。宇野先輩が『セイセキ』というのを展開し続けているからこそ、わたし達は生きられている。その先輩は炎の濁流を顔を歪めて止めていた。
だから分かってしまう……彼が一瞬でも気を抜けば、わたし達は炎に呑まれる。
つまり、彼女の凶行を止めれなくなったんだ。
「……脆くなったな、聖蹟教会。以前の貴様らは、そんな半端な慈悲を抱いていなかった」
右目を抑え淡々と言う彼女。その声は、炎を抑えるのに膝を折る先輩には、届いてない。
「これは私で片づける。土足で踏み込むな、青二才」
火柱の勢いが更に増していく。彼女を包む火は全身へと回り、まじまじと彼女は自身の手を見つめる。
「……呆気ない。妄執の末路がコレか」
哀愁を帯びた声。
特に特徴的なものではない。言葉だけ切り取れば、ただの台詞だろう。
けど、わたしは単純にそうと思わなかった。
それは、終わることで『ナニカ』を手放すような────
『ガ、ギギギギィ……‼︎』
意識が、急に取り戻される。
「お前、まだ────」
『ぁ、ああ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だああああああああああああああああ!』
汚濁に満ちた雑音が、再び彼女の身体へと乗り移る。
手を見ていた瞳は白目を剥いて、全身を包む炎を消そうと両手で全身を叩く。それが無意味だと認められない幽霊たちは、更に叫んだ。
『ァ、ああ! 消エル、き、えル! このま、マでハ‼︎』
途切れ途切れに言い、背中を曲げる幽霊。
そして。目を、向けた。
死ぬ寸前の彼等が宿る、身体の主に。
『寄コ、セ。ソノ、命、一つに……一緒ニ、なレ!』
彼女の口から、どこからか分からない。ただ憎悪の籠った声だけが、廊下内に響き渡った。
炎の勢いが、衰える。夜を染めていた魔女の火は、突如として消滅していく。
火柱が衰え、女の子がよく見える。
その手は、残っていた破片を無造作に掴んだ。
それを見て、わたしは、多分、何も思わなかったのだろう。
あまりの展開に呆然とする、とか、多分思っても、ああアレで刺して成り代わるつもりか、くらいだろう。だって、知らない他人に向ける余分な感情はない。わたしは自分で精一杯で、人を慮る余裕なんてないのだから。
……だから、
今思うのは、激しい自己嫌悪だったりする。
「バ──なにをしてるんだ、早く戻れ!」
ああ、初めて先輩に怒られた。でもしょうがない。わたしは馬鹿だ。
彼女が破片を手にした途端、走って。
首に刺そうとするのを、止めてしまったのだから。
「……ッ!」
ああ、馬鹿だ。馬鹿だ。大馬鹿だ!
今更後悔しても、怖くなっても仕方ないのに、どっちもきてしまっている。尚悪いことに、わたしの手は、彼女の手を掴んで離さない。
「はナ、せ!」
「い、いや、だ!」
思いとは裏腹に、思いもよらない言葉が出る。
それを現すように、わたしの手はどんどん力が入る。どんなに振り回されても離れない。力を入れすぎて、わたしが逆に痛い。
ふと思う。そういえば、わたしがいま掴んでいる手は、幽霊の手だ。
幽霊は冷たい、と聞いたことがある。もう死んでしまった人だから、冷たいのだと。
でも、いま掴んでいる彼女の手は、温かくもないが冷たくもない。
……場違いだが、少し落胆する。これだったら、勘違いしていたままの方がよかった。
幽霊も、人間と変わらない、なんて。怖くなくなってしまうではないか。
「だッたラ……」
痺れを切らした亡霊が、呟く。
振るい回されていた手が、急に止まった。呆気に取られたわたしは、身体がぐいっ、と前に倒れてしまう。
「オ前が、死ネ!」
吸い込まれるように、倒れる。前には、彼女の手があって、そして。
「──────ぁ」
ナニカが、突き刺さった。
お腹の、少し上あたり。先程とは違う個所。さっきよりも、急所に近い場所。
冷たい刃が、抜かれる。代わりに、生温かい液体が、流れていく。お腹を這うように流れるソレが手についたから、わたしは見る。
ああ、さっきも見たなコレ。手についた赤色の血は、さっきと変わらない。
でも。さっきより不味い位置だった。痛みを感じない。血が止めどなく流れて、正直、立つのがやっとの状態だ。
「…………おい」
唐突に、乱暴な声が掛けられた。先程の、彼女の声だ。身体の持ち主の、幽霊さん。
「なんで、きた?」
理解できない、と言いたげな声だった。当然だ、とわたしも思う。答えてあげたいけど、わたし自身も分からなかった。
ただ、彼女が、その崩れなさそうな怜悧な顔が、今にでも泣きそうだったから。
苦しかったけど、答えた。
「さあ、なんでだろう。良いこと、したかったから、かな?」
苦し気に、苦し紛れの回答。
瞬間、体が限界を迎えた。立つ足から、力が無くなった。
そのまま廊下にぶつかると思ったけど、そうはならなかった。
倒れるわたしを支える幽霊さん。霞む目が捉えたのは、赤い色の髪と瞳。
ああ、そこだけは違うな、とわたしは思う。わたしの髪は赤だけど、目は青だから。
「なんだ、それ。それだけの為に、お前は」
答えになってない、と言いたげな表情を浮かべる。その通りだから、仕方ないのだけれど。
わたしはただ、薄く笑った。意味はない。誤魔化すためだ。不出来な答えを隠すために。
「なんで……なんで、笑うんだ? 死ぬんだぞ? お前も、なんで笑え────」
震えた声は、突如として掻き消えた。
彼女が顔を下ろす。胸を貫く白い剣。雪を思わす、純白の鍵剣が。
『ぁ、消、ヱる。ぼ、くが……』
茫然とした『声』たち。白いモヤが、赤い幽霊さんから剥離されていく。頭上に昇り、塵へと還っていった。
わたしは、穴が空いた胸へ視線が行った。風穴となった部分は、人でいう心臓部。
幽霊さん自身は、視線を傷へと向けず、正面へと向けた。……止めを刺した、執行者に。
「忌々しい。技だけは、残っていたか」
そう口にする幽霊さんは、どこか儚げで、遺言じみていた。
事実、なのだろう。彼女の指先が、徐々に消えかかっている。先程の『声』と同じく、さらさらと塵に還っていっている。
がくん、と身体が落ちた。幽霊さんの足元が、消えてなくなったのだ。
わたし達は倒れる。それはまるで、手折れた花を想起させた。
瞼が重い。既に手足の感覚がない。駆け寄ってくる先輩の声も、もう届かない。
霞む視界の先で、先輩の手が淡く光る。でも、もう無理だ。血が流れすぎたし、無茶をしすぎた。
きっとわたしはもうすぐ死ぬ。それでいい、とわたしは思う。
思えば、どうしようもない人生だった。
赤信号なのに普通に歩く。人が困っていても素通りする。タバコ吸ったこともある。そんな軽犯罪じみたものばかりを、思い出す。
でも……
こんなわたしでも、最期の最期は、良いことできたかな。
結局それも、無駄になっちゃったけど。
自嘲気味に口を動かす。それを最後に、わたしは重い瞼を、閉じた。
「────ふざけるな。こんなの、認められない」
誰かの、声がする。微睡みの中で反響する、女の人の声。
その声が、さっきの幽霊さんだと気付くのに、時間は掛からなかった。
「……お前を助ける。ただし、条件付きだ」
条件、とわたしは聞き返した。
「私の目的を果たすのを手伝え」
貴方の未練って、とわたしが口にする前に、彼女は言った。
「私の目的は、復讐だ」
その時、何でか分からないけど手を差し伸べられた気がした。
暗闇で何も見えないのに、赤い幽霊さんが手を伸ばすのを幻視する。
「手を伸ばせ」
どこか、それを彼女自身が願っているような声色だった。
わたしは、死んでもいい、と思う。別に、生きてても死んでいても変わらないのだから。
けど。
何でか、分からないけど。その手を、掴んでしまった。
「────ああ、それで、いい」
ぐいっ、と手を引かれた。
水から引き上げられる感覚に襲われる。暗い深海から陽光照らす水面へと浮上するように。
そのギリギリで、私は訊く。「貴方の、名前は」と。
彼女は、つまらなそうに答えた。
「スカーレッド。今はただ、これでいい」
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