第1章/ナイトコール_Moon Flower

1-1

 冬の曇り空は、心に隙間を作る。

 思い出したくないものを思い出したり、ふとした瞬間にざわざわし始める。

 だから冬は嫌いだった。座っている今でさえ、どこか心が落ち着かないから。

 扉が開く。テーブルに置かれた洋燈ランプの火が揺れる。隙間から入る蛍光灯の明かりが眩しくて目を細めた。


「失礼、調子はどうかな?」


 低音の柔らかい声が向けられる。入ってきた人は扉を閉めると、わたしと対面になる椅子に腰をかけた。

 初老の男性。身嗜みに気をつけているのだろう。ふんわりと、香水の香りが漂ってくる。

 手には二つのマグカップと、蓋付きの小さな壜を器用に挟んでいた。


「私はヴィルヘルム。ここの神父をしている者だ。砂糖とミルクはいるかね?」

「……いえ、大丈夫です」


 マグカップの片方をわたしの前に置いてくれる。揺ら揺らとした黒いコーヒーがわたしを映し出す。

 変に入れて台無しになるよりは、そのままでいい。

 ヴィルヘルムさんは自分のカップに角砂糖とミルクを入れる。……傍から見れば、多すぎる量だった。


「大体は銀次くんから話は聞いてるよ」


 スプーンでかけ混ぜる中、ヴィルヘルムさんは言った。


「破片は心臓にまで達していた。彼は優秀な魔祓師だが医師ではない。あそこで助けられなかったのは、恨まないでくれ」


 わたしはゆっくり頷いた。急場で助けてもらったのだ。恨むなんて、とんでもない。


「……で。大事なのはここからだ」


 甘みが混ざったコーヒーに口をつけた後、真剣な表情で言う。


「心臓が傷ついても尚、こうして生きている。君は彼女のお陰で、急死に一生を得たのだ」


 カップを置く音が、嫌に大きく聞こえる。わたしは口を挟まず、聞くだけだ。


「肉体と魂はセットだ。肉体をグラス、魂を水と考えれば分かりやすい。グラスが割れれば水が漏れるのは必定。グラスの中にあった水が無くなる……魂が尽きることを、我々は死と呼ぶ。 君も本来であれば、間に合わなかった」


 重苦しく話す神父さん。それは、助かったことが不都合だと言っているようだった。

 眼鏡の奥の碧眼が、真直ぐわたしを見る。


「君は生き返ったんだ。死ぬ前と同じなら生き延びたと言える。しかし、今の君には『もう一つの水』があるのだよ。……彼女は?」

「……すみません、わたしにも分からなくて」

「いや。この部屋にはいる。その為に、きみを隔離したんだからね。──このまま軟禁されるのは、きみの思うところではあるまい?」


 そう言った、刹那。


「囀るな。今すぐにでも、この牢獄ごと燃やしてしまってもいいんだぞ」


 背後から声がした。ヴィルヘルムさんが、目をズラす。

 その人は、わたしの隣に立って、姿を現した。


 学校で幽霊に取り憑かれていた、赤い髪の幽霊。


 現れて出てきた彼女の服装は学校の時と違っていた。赤い外套に黒いズボンと、大人びた姿だった。毛先が肩にかかるくらいの赤髪が、少女だった時の名残と思えるほどに。


 それらが霞むほどの、黒い雰囲気。


 怜悧な顔に浮かぶのは、他者を寄せつけない絶対的な拒絶。

 不機嫌な口調で言い放った彼女に、ヴィルヘルムさんは柔和な笑みを浮かべる。


「やっと出てきてくれたね。きみもいなければ話が進まないんだ」

「混ざる気はない。さっさとここから出せ」

「きみが私を排斥する気なら、してみればいい。だが私は部下に恵まれてね。この結界の中ではきみとて力の解放は難しいだろう」

「試してみるか?」


 直後、彼女は掌を前に出した。……思い出すのは、あの劫火の河。

 しかし炎は、一瞬だけ指先に現れて、すぐに消えた。

 目を細め掌を見る彼女に、小さな笑い声。


「言っただろう。きみであれ難しい、と。

 名を教えて貰っても構わないかね、お嬢さん?」

「……スカーレッド。今はそれでいい」


 敵対心を露わにして名を告げる彼女……スカーレッドはぶっきらぼうに告げた。


「よろしい。ではスカーレッド。そして、コザカさん。きみ達が置かれている状況を説明しよう。────結論から言って、危うい立場だ」


 湯気が消えて、ぬるくなったコーヒーを混ぜながら彼は続ける。


「きみ達は繋がりすぎた。コザカさんを繋ぎ止めるために、彼女スカーレッドが失った分を自己の魂で補強した。一つの身体に出自の異なる魂が二つある状態。先程も言った、一つのグラスに違う川の水がある、という風にね。そこが問題なんだ。魂が繋がった以上、無理に引き剝がそうとすれば二人とも死ぬだろう」

「死────」

「当然、亡くなるのは望むところではない。我々は問われた」

 

 取り憑かれた人命をとるか、教会による使命か。


「……教会は、後者を選んだ」


 かき回す手を止めて、しばらく間が開いた。


「霊とはいえ、大惨事を引き起こした事例は多数ある。取り憑かれ、霊の切除が不可能であれば、多少の犠牲はやむを得ない」

「そうか。ならさっさとそう言え」


 再びスカーレッドは掌を前へと出した。

 先程までなかった熱が、空間を歪ませる。

 橙色の炎が、彼女の顔を照らす。


「嘗めるかよ凡夫。こんな牢獄一つで、完全に私を閉じ込められるとでも?」

「その場合、きみだけでなく彼女にまで被害が及ぶ。手を差し伸べた者を自分で壊すほど、気が違っていないと思うがね」


 カップを手にして、コーヒーを飲む。緊張が空間を支配する中、かちゃり、と置いた音だけが聞こえた。


「勘違いしないでほしいが、今のは多勢の意見だ。私個人の意見は、別にある」

 

 落ち着いた声色の向きが、スカーレッドからわたしへと向けられた。


「これはきみたちが生き残る唯一の選択だ。……我々、聖蹟教会に加わることだよ」

「えっ────?」

「曰く付きの者にも門を開くのが教会だ。徒に剣を向けるほど目は曇っておらん。末端でいい。それだけで一命は取り留められる」


 鼻で笑う音が隣で聞こえた。わたしは振り返り、スカーレッドを見る。


「笑えない話すぎて逆に愉快だ。神に仇なすモノを殺すのが役目だろうに」

「いまの時代は互いの信仰を尊重するものだ。飢えた狂信など犬も拾わん」


 それに、とヴィルヘルムさんは区切って、


「私が助けたいのは彼女だけではない。きみもだスカーレッド。人命を救った君を、霊だからという理由で排斥するのは、それこそ私の信仰に悖る」


 眉根を寄せるスカーレッド。


「だがきみに決定権はない。そこは解っていただきたい」

「……言われるまでもない」


 舌を鳴らし、スカーレッドは腕を下ろした。

 ヴィルヘルムさんは視線を、再びわたしへと戻して、


「決めるのはきみだ。生者こそが、道を作ることができる。猶予はない。今ここで、決めてくれ」

「……また、あの幽霊みたいなのと戦うんですか」

「ヒトに害を成す全て、とだ」

「死ぬことも、あるんですか」

「弔った者の数を、私は覚えている」


 沈黙が、空間に走った。重苦しい静けさが、肩に乗っかかる。

 ……考えたこともない。というより、想像ができない。生きるか死ぬかの選択を突き付けられているにも関わらず、実感が湧かない。

 死は、恐くない。あの時ですら、恐怖はなかった。痛いし、血の気が引いていく感触は嫌だけど、生の消失であって、死への忌避感ではない。

 どこか、キャンバスに描かれた世界を見るように、自分の死を視ている。


 なら。

 ここで終わらせても、特に後悔はないだろう。


「────やります」

「きみはこれから幾度となく苦難と向き合うことになる。それでも、受け入れると言うのかね」

「────それくらいしか、役に立てそうにないですから」

 

 いつ死んでもいい。わたしの人生は、使い道がない。

 なら、誰かの役に立たせるくらいにしか、用途はないのだ。

 ヴィルヘルムさんは暫し、口を閉ざした。指を組み、深く息を吐く。

 そして。


「きみなら、そう言うと思ったよ」


 席を立つヴィルヘルムさん。口をつけたカップを手に、背中を向ける。


「面倒な書類はこちらでやろう。本部の口利きもね。これでも顔は利くんだ。神父だからね」


 靴底の音が反射する。彼はドアノブに手を掛けて、「ああ」と思い出したように振り返った。


「手続きが終わったら早速動いてもらおう。なに、きみ達だけではない。同行者がいる。軽い肩慣らしとでも思っていい────ようこそ聖蹟教会へ。我々は歓迎するよ、小坂緋茉莉くん」

 

 ドアが開く。再び照らされる光に、私は顔を手で覆うようにした。

 ヴィルヘルムさんは去っていく。音が徐々に遠ざかり、消えていった。

 狭い部屋には、わたしとスカーレッドだけ。ドアは開かれていて、後は外に出るだけだった。


「……おまえ、どういうつもりだ」

「どうもこうもないよ。生きて終われたのは、確かなんだから」


 椅子から立ち上がる。長時間も座っていたから、お尻が痛い。

 わたしは正面を睨んだままの幽霊に向き直る。鋭い視線が、射抜くようにギロリと動く。


「なんだ」

「……挨拶。これから一緒になるんでしょ」

「必要ない」


 ピシャッ、と即答された。


「勘違いするな。お前を助けたのは目的があったからだ。仲良くする気はない」

「分かってるよ。貴方の目的を叶える為に、わたしはいる」


 それでいいよ、とわたしは言った。


「わたしは、その為にいるんだから」


 スカーレッドは、口を開けたまま何も言わなかった。やがて、わたしから背を向けると、


「さっきから……なんだ、おまえは」


 それだけを言い残して、すう、と消えた。音もなく、影もない。

 残されたのは、わたし一人だけ。

 わたしは、カップを手に持った。ヴィルヘルムさんが持ってきたコーヒーだ。

 冷めきったコーヒーが揺れる。ゆっくりと、口をつけた。


「────苦い」


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