のろい
西順
のろい
僕は昔から足が遅い。いや、動作がのろいのだ。
朝、通勤の為に僕は普通に歩いているつもりでも、どんどんと後から来た通勤通学の人々に抜かされていく。三十にもなって何で僕はこんなにのろいのか。
「はあ」
朝早くに家を出たと言うのに、会社に着いたのは始業時間ギリギリで、周囲からの視線が痛い。別に遅刻した訳じゃないのに。
「おい、早くしろ」
上司に叱られた。
「はい」
僕が頼まれていた資料を持っていくと、上司はそれをひったくり、急いで会議室へと向かっていった。はあ、何とも忙しない。僕はそう思うのだが、周囲からの僕への視線は冷たい。何なら上司への同情の声が漏れ聞こえる程だ。僕は普通に仕事をしただけだ。遅れてはいない。
「まだ終わっていないのか?」
またも上司が嫌味を言ってきた。終業時間になっても、僕の仕事が終わっていないからだ。僕だって帰れるなら早く帰りたい。でも僕に課された仕事量は、のろい僕には一日で終えられる量ではなく、どうしても残業する事になってしまう。
「お前以外は皆もう帰っているんだぞ? そんなに金が欲しいのか?」
うちの会社は残業を推奨していない。なので会社に遅くまで残る僕は厄介者として嫌われる。
「今帰ります」
仕方ない。残りは家でやろう。と僕は帰り支度を始めるが、
「早くしろ」
それさえ遅く感じるのだろう。上司に急かされた。
「はあ」
暗い夜道を俯きながらとぼとぼ帰る。それをどんどん追い抜いて行く退勤下校の人々。
「お兄さん、大丈夫ですか?」
そんな僕に誰かが声を掛けてきた。声の方を振り返ると、道端で占い台を広げている占い師の女性が心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫です」
こんな怪しげな人物に心配される謂れは無いので、僕的に足早にその場から立ち去ろうとしたのに、占い師は追い掛けてきて、ガシッと僕の肩を捕まえた。
「大丈夫じゃないですよ! 貴方、霊に取り憑かれていますよ!」
はあ? 取り憑かれている? 僕が? 嫌われ者ではあるが、恨みを買う程の人間ではないと思っていたんだが。いいや、そもそも霊なんていないでしょ。
「こんな何人もの女の霊にしがみつかれいる人は、初めて見ました」
嘘決定だな。悲しいかな僕は女性と交際した経験が無い。そんな僕が女の霊に取り憑かれている訳が無い。
「とにかく、こちらへ来てください。このままだと命に関わります」
占い師は強引に僕を引きずり、水晶玉の置かれた占い台の前に座らせた。
「あの、本当にこんな事にかまけている時間無いんですよ。早く家に帰って仕事の続きをしないと」
「そんなの後にしてください。言ったでしょう? 命に関わると?」
そう言われると、反論出来ない自分がいた。なにせ我が一族の男は短命だからだ。曽祖父も祖父も父も、四十を待たずに死んでいる。死因は様々なので、偶然だと思うが。そんな事を脳裏で振り返っていると、占い師は水晶玉を覗きながら、「う〜ん、う〜ん」と唸っている。
「これは貴方の一族の女癖が、貴方の代まで積もっていますね」
「へえ」
確かに我が一族の男は女癖が悪かったと、僕を育ててくれた祖母が教えてくれていた。この占い師、中々やるのかも知れない。
「つまり、先祖の女癖のせいで、僕は女の霊に取り憑かれて、死ぬかも知れないと?」
「そうです。と言うよりも、貴方、良く動けていますよね?」
ドキリとした返答だ。
「それはつまり、僕がのろいは、僕に取り憑いている女の霊たちが僕の動きを妨げているからって事ですか」
僕の質問に首肯する占い師。なんと言う事だ。先祖の悪行のせいで、僕はのろいだなんだと周りから嫌われていたのか。
「じゃあ、この女の霊たちを祓ってくれたら、僕は早く動けるようになるんですね?」
「まあ……そうなりますかねえ」
何とも曖昧な返答だ。いや、顔を見れば分かる。占い師の顔には、鴨が葱を背負ってやって来たと書いてある。しかしこれが自分を変えるチャンスかも知れないのは確かだ。
「お幾らですか?」
「百万円」
百万!?
「と、言いたいくらいですけど、それが払えず、貴方が死んでしまっては、こちらも寝覚めが悪いですからね。大まけにまけて、二十万円でどうでしょう?」
二十万円か。もし僕が本当に四十前に死ぬのだとしたら、百万円払っても安い買い物だと言える。それをここまで安くする理由はなんだ? と占い師の目を見れば、それは真剣なものであると判断出来た。
「分かりました。明日持ってきます」
「そうですか。くれぐれも用心してお過ごししてください」
占い師から忠告を受けた僕は、その日はそのまま何事もなく帰り、疲れからベッドに倒れ込むなり寝落ちしてしまった。
ハッと起きればもう朝で、しかも出勤時間を過ぎている。今日は朝一で会議があり、その資料を昨日の夜に作っておくはずだったのに、なんて失態だ。
僕はこの失態を取り戻すべく、朝食も摂らずに家を出て、のろいながらも走って会社に向かったのだが、そんなものは焼石に水で、当然のように遅刻した僕は、会議の資料も用意していなかったが為に、ブチギレて怒髪天を衝いた上司に殴られ、吹っ飛んだ先がデスクの角だった為に、運悪くそこに後頭部をぶつけ、当たりどころの悪さで見事に天に召されたのだった。
のろい 西順 @nisijun624
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