春の配達員と雪だるま

ソブリテン

春の配達員と雪だるま

 札幌の四月上旬の朝に、満開の桜は滅多にない。あるのは、嫌なぐらいに晴れた空と。空気に少しだけ潜んだ、雪融けの残り香だけ。薄暗く淀んだ心臓が、藻岩山の引力に負けて持っていかれそう。私は、春が嫌いだ。憂鬱な脳と重苦しい体を置き去りにして、生活や環境だけが勝手に走り出してしまう。そんな季節が、私は大嫌いだ。特に、今年の春は。

「あ……。」

 がたんごとん。がたんごとん。電車が私に向かって進む。進む。遮断棒に隔離された世界の、タイムリミットが近づく。ききぃっと、鈍い音が鳴る。春は今年も、私を置き去りにした。


 二礼に二拍手、そして一礼。刈り忘れられた芝のように、住宅街にぽつんとそびえる神社にて。挨拶を済ませた私は。

「春、届けに参りました。」

 眩しい陽射しに勾玉をかざして、祈る。身を焦がすような静けさが、優しい風の音を呼び込む。ひゅるりら、ひゅるる。ひゅららるら。春風は、冷気を祓って、境内を舞う。ひゅるりら、ひゅるる。ひゅららるら。勾玉が強く光る。風は、微かに桜色に染まる。染まって、弾けて。町中へ散り散りに飛んでいった。

「終わった……。」

 どっと疲れた私は、その場にすとんと座り込む。地面は雪融け水で湿っているが、朝陽を吸い込み、嫌に温かくなっていた。顔を上げると、目の前には背の低い木。萌葱色の葉が、蕾が、緑のモザイクを構成している。桜色は、見当たらない。


 日の出前に目が覚めて、町から町へとひたすら歩き、春を届ける。夕方になると眠くなり、木陰や茂みで黎明を待つ。私は、春の配達員だ。この仕事は、誰かにやれと言われたわけではない。やりたいと言ったわけでもない。ただ、生まれた時から毎年ずっと。太陽が東から昇り、西へ沈むように。ごく自然に、当たり前に繰り返してきた。そんな生き方が、私はどうしても好きになれない。そもそも私は、春が嫌いだ。春は私を、いつも置き去りにする。新学期とか、新生活とか。息を合わせたように一斉に変わって、私だけが取り残される。

「あれ……。」

 学校。友達。朝の踏切。存在しないはずの記憶が、矛盾に怯える膝が。北から吹いた強風にゆらめく。重心を崩して、足場をなくす。頭は真っ白なまま、コンクリートが近付いていく。この感じ、初めてじゃない。私は……。

「おっ、と……。」

 デジャブを打ち消したのは、私の背中を支える冷たい感触と。

「やっと会えたね!」

 虹をディスケットに落としたみたいな、綺麗で優しく、親しみやすく、それでいて明るい声。その声の主は。

「僕はツトメテ!さあはやく、僕を消し去って!」

 どう見ても、雪だるまであった。


 陽の当たる公園の、すみっこのベンチに腰掛けて。私は久しぶりに、誰かと会話をしていた。ただ、その誰かというのは。神様でも、野良猫でも、からすでもなく。

「……てことで、なぜか春になっても生き延びてしまっててさ。」

 春の陽射しを浴びても溶けず、人の言葉を話す。そんな、あまりにも奇妙すぎる雪だるまであった。

「春の配達員さん。君の力で、僕のことを消して欲しいんだ!」

 少しおちゃらけた、でも嘘っぽくはない声を。白い息が乗せて、宙を舞う。ひらりと、舞って。そよ風と混ざりあっていく。

「その……どうして……?」

「どうしてって、そりゃあ僕が雪だるまだからさ。春にいるべき存在じゃない。似つかわしくない!エモくない!」

「えも……?」

「趣がないってことだよ。冬以外の世界には、僕なんて生きててもしょうがないんだ。」

 ツトメテさんの眼球代わりの黒い石は、まっすぐ遠くの空を見ている。自分の存在意義。そんなこと、考えたことがなかった。春を配り歩いては、眠る。それだけの日々は、憂鬱だったけれど。私は漠然と、それを受け入れて生きているだけだったのだ。だから。

「わかりました……。じゃあ、やってみます。」

 すごいなって、ただ思った。


 私は春の配達員。あたたかな風を呼んだり、葉や花をそっと起こしたり。木陰に残った雪を、溶かしたり。そういうのが、私の仕事だ。

「よろしくねー!」

 これから溶けて消えるかもしれないというのに、ツトメテさんの声と身振りには、怯えも哀愁もまったくない。

「では、はじめますね……。」

 合図のように小さく言って、唾を飲む。息も、飲む。真上の太陽に勾玉をかざして、祈る。体を芯から熱する静けさが、正午の風の音を呼び込む。ひゅるりら、ひゅるる。ひゅららるら。春風は、冷気を祓って、公園を舞う。ひゅるりら、ひゅるる。ひゅららるら。勾玉が強く光る。風は、微かに桜色に染まる。染まって、弾けて。

「えと……。」

 さっきよりも少しだけ、風に温もりを感じる。さっきよりも少しだけ、ライラックの木が元気そう。ただ、それだけで。

「あはは、やっぱ無理か!」

 ツトメテさんは、普通にそこに立っていた。


「もしかしたらあなたは、春に未練があるのかもしれません。」

 私ができるのは、飽くまで春を届けることだけ。それを受け取ってもらえないことには、何も起こらない。蒲公英が春を拒めば、彼は芽吹くことはない。そして、拒絶というのは、無意識であることが大半だ。たとえば。

「春にやってみたかったこととか、あるんじゃないですか……?」

 春に自分が生きている理由はないと、自ら消えることを願ったツトメテさんに対して。このようなことを言うのは、とても心苦しく感じた。なんとなく、失礼な気がしたのだ。嫌な思いをさせてしまったのではないだろうか。恐る恐る、顔を上げると。

「桜……。」

 ツトメテさんは。

「桜が見てみたい……!」

 期待と好奇心に満ちた仕草で、声で、そう言った。


 痩せ細った体に、腕に、申し訳程度に点在する淡いピンク色の花びらを見上げて。

「これは……?」

 ツトメテさんは、首を傾げる。

「桜、ですね……。」

 札幌の四月上旬の午後に、満開の桜は滅多にない。あるとすれば、それは。歩道の脇にひっそり佇むこの木とか、そういうのだ。

「配達員さんの力でなんとかできないの?もっとこう、わーっと!」

 ツトメテさんは、大袈裟に両手を広げて、私を期待の眼差しで見つめた。私は。

「もう既に、春を届けた木なんです。」

 亜寒帯気候を憂うことしか、できなかった。


 そんなわけで。

「ここで何ヶ所目だっけ?」

 私とツトメテさんは、桜の木めぐりの旅に出たのであった。

「ごめんなさい、覚えてません。」

 桜の木を探しては、私が春をふりまく。運が良ければ、ひと足早く満開……とはいかずとも、ある程度見応えのある桜を見ることができるかもしれない。そうすれば、ツトメテさんは。

「もうお日様が二回沈んだもんねー。いやーほんと、ごめんね付き合わせちゃってー。」

 ツトメテさんは、春に満足して、春を受け入れて、そして。そして、溶けて消えることができるかもしれない。

「いえ、全然。大丈夫ですよ。」

 出会って三日間。一緒に桜を探して歩いて。なんというか、初めて友達ができたような気持ちに私はなっていた。けれど、ツトメテさんは。

「あーあ。また今日も生き延びてしまいそうだ。」

 変わらず、前向きに、ひたむきに。自分自身の消滅を願っている。私たちは、飽くまでそのための協力関係。なんとなく、それが。心のどこかで私は、寂しく感じていた。

「わ……!みてあれ、桜の木じゃない?」

 ツトメテさんは、踏切の向こうにある木を指差した。がたんごとん。遠くから、電車がやってくる音がする。遮断棒が降りていく。がたんごとん。音はどんどん大きくなる。がたんごとん。がたんごとん。

「ねえ、見に行こうよ!」

 ツトメテさんの背中が遠ざかる。踏切の、方へ。待って。やめて。行かないで。私を置き去りにしないで。私はまだ……。

「ここに、居るのに……。」

 手を伸ばして。届かなくて。その場に、倒れ込んで。存在しないはずの記憶が、蘇った。


 人間として生きていた頃。私には、友達がいなかった。春になると、たくさんの出会いがある……らしい。でもそれは、私にとっては他人事だった。どう頑張っても、私に友達なんてできなかったのだから。いや、友達だけじゃない。私には、何もなかった。趣味も、特技も、誰かの役に立てることも。本当に、本当に何もなかったのだ。生きている理由なんて、考えたこともなかった。死ぬ理由も、思いつかなかった。移りゆく季節に、何も感じることもできずに。ただただ、生かされていたのだ。春は私をいつも置き去りにした。当たり前だ。私はずっと、立ち止まっていたのだから。私は、そんな自分が嫌いだった。春ではなく、私という人間が。この上なく、大嫌いだったのだ。


 目が覚めると、薄暗い空に微かなオレンジ色の灯火が輝いていた。背中には、いつかの冷たい感触。

「ツトメテさん……?」

 その冷たさに、ほっとして。体重を預けたまま、思わず微笑む。

「いきなり倒れて心配したんだよ!起きてくれてよかった……。え、なんで笑ってるの?」

 少しおちゃらけているようで、一切の嘘も含まない、綺麗な声。私を、心配してくれる声。

「初めてできた友達が、居なくなってしまうかと思って。それで私、怖くて。でも今、ツトメテさんの声が聞けて、すごく安心したんです。」

 言ってから、我に返った。勝手に友達と言ってしまったこと。消えたい人に、遠回しに消えないでほしいと言ってしまったこと。また間違えてしまった。やっぱり私は、何もかもだめなんだな。友達なんか、できっこない。久しぶりの涙が、頬を伝う。なんか、嫌だな。こういうの。やっぱり私は、春が……。

「配達員さん、僕は……!」

 ネガティブの渦を祓って、ツトメテさんが何かを言いかけた。その、瞬間。ひゅるりら、ひゅるる。私の涙が、春風に乗って。ひゅるりら、ひゅるる。踏切の向こうの、背の低い木のほうへ。ひゅららるらと、飛んでいった。そして。桜色が、ぽつぽつと輝いた。でも、それは。満開とは程遠い、か弱く地味なものであった。

「ごめんなさい、ツトメテさん。こんな桜じゃ、また……。」

 消えることはできないですね、と。言おうとして、顔を上げると。ツトメテさんの体が、溶けはじめていた。眩しい陽射しも、満開の桜もない、札幌の四月上旬の夜明け前に。命ある雪が、残酷に溶けていく。

「どうして、ですか……。こんなの全然満開じゃ……。」

 突然の出来事に、頭も舌も霜焼けになったみたいに回らない。ただ、ひたすら。

「僕、本当はさ。友達と桜が見たかったんだ。満開じゃなくても、なんでもよかった。」

 ひたすら、怖い。目の前で溶けていく、初めて友達だと思えたツトメテさんの。

「僕のこと友達だと思ってくれてありがとう。本当に、ありがとう。配達員さん。」

 その優しい声が。もう聞けなくなるのが、心の底から怖い。

「ツトメテさん、待って……。待ってよ……。私を置いていかないでよ……。私はまだここに……。」

「配達員さんはもう、どこにでも行けるよ。僕に桜を見せてくれた、大切な友達だから。」

 その言葉は、北から風を呼び寄せた。風は桜の木を揺らす。揺らして、散らす。ひらり、ひらりと桜が舞い散る。ツトメテさんは、もう半分以上溶けてしまった体を引き摺って、私へ歩み寄る。黒い石が、桜色を反射して、きらきら、きらきらと輝く。

「私の名前、桜木曙っていうんです。さっき思い出しました。」

 明け方の空に桜色が灯る。私は、涙を必死に堪えて。最後の、何気のない会話を始める。

「素敵な名前だね。まるで、いまこの瞬間のためにあるみたいだ。」

 優しい北風が、寛ぎの音を奏でる。ひゅるりら、ひゅるる。ひゅららるら。

「ツトメテさんは、その名前自分で付けたんですか?」

 春風は冷気を包み込んで、宙を舞い踊る。ひゅるりら、ひゅるる。ひゅららるら。

「いや、付けてもらったんだ。人間の子供に。」

 夜が明ける。朝陽が眩しく私たちを照らす。桜色の風は、春に溶けていく。

「その子とも、友達になれるといいですね。」

 ツトメテさんも、溶けていく。

「うん、そうだね。」

 ふたりの涙は、早朝の空へと消えていく。そして。桜舞い散る四月の札幌に、季節外れの粉雪が降り始めた。ひゅるりら、ひゅるる。ひゅららるら。

「春、届きましたか……?」

 独り、問いかける。奇跡は、起こらない。それでも。素敵な偶然は、きっとそこにあった。




 札幌の一月の朝は、四方八方が雪まみれだ。天気が良くても関係ない。人々の吐く息は白く、陽射しはカイロ代わりにもならない。むしろ雪が光を反射して、ただ目に悪いだけだ。まあ、悪くなる目なんて持ってないけど。とにかく僕は、冬が嫌いだった。人間も、嫌いだった。


 僕を作った人間の子供は、よく僕のところにきて、話しかけてくれた。僕は雪だるまだから、お話することはできないけど。その子と友達になれた気がして、凄く嬉しかった。


 その子はある日、僕に「春になったら桜を見に行こう」と言った。僕は春も、桜も知らなかった。当然だ。僕は雪だるまだから。冬の間しか、存在することができないのだ。それでも、僕は。友達と、その桜というものを見てみたいと思った。


 しかし。彼は、冬が終わる前に。僕のことを忘れてしまった。人間なんてそんなものだ。興味がなくなれば、簡単に居なくなる。わかっていた。わかっていたけれど。本当に、寂しかった。


「春、届きましたか……?」

 遠くから、桜色の声が微かに聞こえて。思わず、微笑む。届いたよ、曙さん。春を届けてくれて、ありがとう。僕と友達になってくれて、ありがとう。本当に、本当に嬉しかったよ。じゃあ、またね。

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春の配達員と雪だるま ソブリテン @arcenciel169

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