第99話 ため息

099 ため息


「そもそも、閣下は漁夫の利という言葉をご存じか?」

石原は投げつけられた言葉に憤慨した。


「今、中華は内戦の真っただ中なのです。とことんやらせるのです。中国共産党はなかなかにしぶといのです、国民党も相当手こずるはず。その間我々は、西欧列強と戦争しなければなりません。満州が戦乱に巻き込まれれば、安全地帯を失うことになるのです」


関東軍の主な意見は、中国侵略である。

新ロシアが安定し、モンゴルが親日本に傾いたことにより、関東軍の敵は、中国しかなくなったのだ。しかし、モンゴルの国境警備は継続している。そしてソビエトとの散発的な戦闘を行っている。


「ですから、できるだけ中華には内戦を頑張ってもらうために、弱い方に武器を供与しているのです」

爆弾発言が飛び出した。


「おい、今何といった!」

「武器供与です」

「敵になるやつに武器を渡してどうするんだ!」

「敵の敵ですから、この場合は味方です」

「どっちも敵だ!」石原は顔を真っ赤にして怒鳴った。


裏で一体何をしでかしていると思えば、武器供与である。

ここで、関東軍が、長城を越えればその武器を持った中国連合軍(国共合作)が襲いかかってくることになるということだ。


こうして、支那事変(日中戦争)は、起こらなかったのである。いや、起こせなかったのである。それに、男にとっては、関東軍がどれだけ死のうが関心はなかった。

満洲の製造工場として役割を守りたいだけなのである。


「我々が、無事に列強に勝った暁には、今度こそ関東軍は自由にしていただいてよろしいでしょう」男は笑った。男の目的は、大東亜戦争ではなく、明らかに太平洋戦争で勝つことだった。


そして、内陸安全地帯を作るという目的とは、日本列島を戦場にして焦土化してでも戦うということ意味していた。石原は思った、確かにこいつは狂ってやがる!と。

眼の前の男には、にこやかに言い切ったのだ。


男の方の言い分は少し違った。

支那事変を興されると、徴兵で工業生産力が落ちる、戦費がかさむので、後でやってもらいたいだけだった。

別に一億玉砕など端から考えてはいない。


それと、島嶼戦に兵を出す必要から、関東軍を好きに使いたいという腹積もりももっていた。

それゆえ、訓練と称して、関東軍の部隊は、なぜか沖縄や台湾で演習を行うことが多かった。

明らかに、南方での実戦に向けた訓練であった。



如何にして、敵兵の血を流させるのか。

それが勝利への唯一の方程式なのだ。

国体による違い、民主主義は選挙に影響を受ける。そのためには、徹底的に、敵の兵士を殺すしかない。兵士を殺せば家族が恐れる。家族が怒る。風を生み出すしかないのだ。


その恐怖により相手が厭戦気分にならないと、工業大国を倒すことはできない。


後は如何にして、敵兵を出血させるのか。その手段を数多く用意する。

男の戦略は非常に単純だった。


そして、帝国側では人間の死などに重きは置かない。

皇国の興廃はこの一戦にあり!


つまり、死んでも天皇の為に勝てといっているのだ。

生死は不問どころか、死んでも相手を倒せと言っているのだ。

国家の支配体制の差が、ここにある。

紙切れ一枚で死を覚悟せねばならない。

某神教の戦士よりも過酷かもしれない。


大統領は選挙で変えることができるが、天皇はどのようにしても変えることなどできない。

天皇が負けたといわねば決して負けにはならないのだ。


男は客観的な視点から、冷酷にそれを見据えている。

そして、自分だけは決して死なないようにふるまうであろう。


そのために、あの薬を抱えているのだ。

男は、そもそも負けるつもりはない。

しかし、もし負けそうなら、どんな困難(例えば落雷)があっても、逃げ延びる覚悟をもっている。

たとえ味方の兵士がどんなに戦死していたとしても。

それはそれ。これはこれ。

男は、そういう考えの人間?なのだから。


男は、関東軍の自由抽出を石原に約束させてから、司令部を後にした。


・・・・・・・・


1939年8月

独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)なる。


世界には、いよいよ不穏な雰囲気が充満していた。

これは、ソビエトで大粛清が終了し、ドイツが戦争準備を終了したことを意味する。


1936年(照和11年)、日本はドイツと防共協定を結んでいるのだが、これは明らかにそれを反故にするような行動である。ソビエトこそ、共産主義の権化なのだから。

しかし、不思議なことに裏切られたはずの日本は、その後日独伊三国同盟を結ぶことになる。


この世界線では、新ロシアが存在しているため、日ソ中立条約は存在しない。

明らかな裏切り行為に日本は激怒するかに見えたが、その後、ドイツの優勢を聞きつけて、三国同盟は結ばれることになる。


しかし海軍でこれに大反対の人間が存在した。


「ヒットラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら、小器用で小利口で役に立つ国民と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの

日本接近の真の理由も其処にあるのだから、ドイツを頼むに足る友邦と信じている向きは、三思三省の要あり、自戒を望む」


井上成美中将その人であった。このころすでに、中将に進級していた。

同じく、海軍三羽烏と呼ばれる人々、米内光政、山本五十六もであった。

井上の視点は非常に正しいものであった。


この世界の山本五十六は、秘密結社『兎の穴』に加盟していた。

その結社を取り仕切る人間(例の男)は、山本にこういったという。

「いかにも、同盟するには、頼りにならないでしょう。そもそも、遠すぎて救援にも来てくれないでしょうし。しかし、技術には見るべきものがある、それは戦争において非常に重要な事です。

我々は、いかにしても彼らの技術を手に入れる必要がある。三国同盟が戦争の引き金になるかもしれないが、それを引かずとも、敵は必ず撃ってくる。我々は如何にしてその時に対応するのかが問われているのです」となんとも奇妙な発言をして容認し、山本を説得したのである。


同盟は役に立たないが、振りだけして技術を引き出すといっているのであった。

何とも卑怯とも思われることを臆面もなく言い放ったのである。


件の男は、そのような人間である。


「ああ」山本五十六は溜息をついた。

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