第45話 月の声

045 月の声


1908年(明示41年)

私たち37期は、無事に1号生徒へと進級した。

位、『神』へと至るのであった。


39期生として、伊藤整一、角田覚治、和田操などがいた。

私は、神として、この3名に特番として、徹底的に教育することにした。

このころになると、愛の修正という物はなりを潜めていた。

無暗に殴ると、報復されることが横行した結果であった。


それだけ、博愛精神に満ちた日月神教の教義が海軍兵学校に広がったに違いない。

日月神教の教えでは、恩には恩で返し、やられたら倍返しで報ゆ。という物があるのだ。


他の生徒からすれば、虎(の名前を持つ刹)の恐ろしさで、誰もが身を竦め、修正することすらできなかったということになる。


虎はまさに猛虎であり、あらゆる肉体系授業では、とびぬけたものもっていた。

剣道や柔道を生徒はどちらかを選択するが、虎はどちらも軽々とこなし、なおかつ、全く疲れることを知らなかった。


柔道では、名ばかりで、襟すらつかまず真空投げを繰り出す。

剣道では、燕返しを繰り出すのだ。

教官すら、黙らせる一撃である。まさに傍若無人の単独行である。


射撃では、本来、私物の持ち込みは禁じられているにも関わらず、狙撃銃で、的を撃ち抜く。

そして、それを同級生らにも、使わせて訓練する。


「官給品でないから駄目だ」といわれれば、「では、その性能の落ちる銃で訓練してどうするのですか」と言い放つ。教官が校長に文句の一つも言いに行けば、「あれは怒らせると何かとまずい」と言うのである。


その銃は密かに、海軍にも導入される話が進んでいた。

海軍陸戦隊の話の絡みである。


その問題の生徒もようやく卒業を迎えようとしていたころの話である。

年は、1909年(明示42年)の10月である。

もう一月で卒業というところまで、皆が頑張ってきた。


規則を破りはしないが、多くの伝統を捻じ曲げてきた。

それらは、日本人特有の暗黙の了解であり、日本人の精神性に寄与するところが大である。

つまり根柢の部分、日本人らしさを忘れてしまったかのような男のふるまいは、規則に書かれていないことを大きくゆがめて、曲解しているところがある。簡単にいうと書いて無ければやっても問題ないということだ。


愛の修正は、規則には書かれていないが、男は、修正をはねのけた。

殴られないわけではない。きちんと殴られるのだが、殴る方が怪我をする。

対番とは、慣習的なものであり、いわば伝統である。

しかし、男はそんなことは省みることもしない。


だが、自分の対番の生徒もきちんと指導はしている。

彼は、自分が特番と名付けたものまで指導したのだ。

より多くの者の世話をしたのだ。と言い張るのである。


本来なら総がかりで、修正されるところだったのだが、全員を纏めて返り討ちにしてしまったのである。これで、上級生の威光は失墜してしまった。


「軍隊なら、命令は絶対。だが、誤った命令、忖度などは気にせず議論しなければならないところもあるのだ」と男は言った。無差別に暴力を振るうのではなく、愛のムチ、理由のある暴力でなければならない。少なくともそれらしいことは言っていた。


そんなことを言いつつ自分が最上級生(1号)になったからと言って、無暗に殴るようなことは決してしなかった。それどころか、特番を増やし、特番を熱心に教育(布教)していた。


彼等特番の生徒は『信徒』と呼ばれることになる。


校長以下教員たちも表立って、譴責することはできなかった。

非常に狡猾に歩き回っていたので、どうすることもできなかった。


それももうすぐ終わる。

全ての生徒、教官らが、本来の兵学校に戻るのだと期待していた。


「体調がすぐれませんので、直ちに療養に入りたいと思います」

明らかに、青い顔で男は言った。

鉄骨でできていた思われた男が突如、体調不良を言い出したのだ。

しかし、2年前には、有栖川宮事件も起こっている。

慎重を期さねばならない、こいつが本当に、病気なのだろうか。


あまりにも厳しい訓練のため、中には、ズル休みを取ろうとする輩がたまに出る。

しかし、こいつは、もうすぐ卒業である。しかも、厳しい訓練などでへこたれたことのない、恐るべき相手なのだ。

にわかには信じがたいことであるのは確かだった。


「今度は一体何の真似だ!」

校長は、吉松繁太郎少将に代わっていたが、この男から目を放していけないと前校長の島本から厳重な引継ぎを受けていた。


「校長、私は兵学校では、このことは言わないでおこうと考えていました」

ここは校長室であり、他に人はいない。あまりにも聞かせられるない内容をしゃべる男ための処置である。


「神の声がするのです」

「貴様というやつは!」

それは、仕官候補生としてはあるまじき発言であったろう。

よくぞ、校長室へ呼び出したものだ。あの時の自分の判断をほめてあげたい。吉松は思った。


「因みに聞くが、何といっているのだ」本来ならばそのようなことは死んでも言えない。

所謂、精神異常者扱いされることになるからだ。


「身体に不調を負った私は、満州にて、若干の療養を要すというものでした」

「貴様というやつは~!」


勿論、公務員試験(SPI検査)で神の声が聞こえるなどと言っては不合格になる。

たとえ聞こえようとも黙殺する度量が試されるのだ。


だがしかし彼こそが、月の女神の声の執行者であることは言うを待たない事実なのである。


きっと月が語りかけてくるのであろう。

季節がそういう時期なのだろう。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る