第34話 返事

 僕は点々と続く血の跡を追いかけて……翠が床で壁に背を預けているのを見つける。声を出して駆け寄った。


「翠っ!」


「雪也……」


「翠、大丈夫っ!」


「ちょっと……。かなり……ダメージを負ったわね」


「動ける?」


「ごめんなさい。まだ、もう少し休ませて……」


「うん……」


 僕は、翠の隣に座る。翠は、ふぅと一息吐いたのち、落ち着いた旋律を流し出してくる。


「大丈夫……よ。人だったら致命傷だけど、私は人じゃないから。休んでいれば……やがて傷は塞がるわ」


 その翠が僕を見て、安心して頂戴、という感じで微笑んでくれる。


 その笑みが心に染みる。


 翠はそののち瞳を閉じて休む様子。僕は身を寄せて、翠の指に自分の指を絡めて握りしめる。





 それから……


 静かな時間が流れ始めた。


 二人とも何も言わない。何もしない。微かな呼吸音だけが静寂の中に消えてゆく、僕らだけのセカイ。


 誰もいない廊下で二人で並んで壁に背を預けながら、十年前も同じだったと思い返しながら、僕は翠に話しかけた。


「昔と同じだね。昔と」


「え?」


 翠はわからないという音。


「実は……」


「ええ」


「覚えているんだ、十年前の出逢いを。一緒に夜を過ごして『パートナー』になるって約束したこと」


「雪也……」


 翠が驚いたという顔をこちらに向けた。


「あの時も翠は……血だらけだったよね」


「……」


「公園の樹の下に……倒れていたよね」


「……ええ! ええ、そう!」


「あの時、翠は服装とかぼろぼろで。でも僕にはキレイに見えて。そして翠は僕をパートナーに誘ってくれたよね」


「誘った……。願った……わ!」


「十年だったら返事を聞きにくるって約束したよね」


「したわ! 約束。十年たったから返事を聞きに来たわ! 雪也がセカイの事が少しわかって分別がつくようになる年齢だから!」


「うん。実は覚えていた。とても印象的な出逢いだったから」


「雪也……」


 翠は泣きそうな顔をしている。


「でも、成長してその翠の言っていた言葉の意味がなんとなくだけどわかるようになって。それがとてもとても怖ろしいことなんだってわかって……」


「ええ、そうね……」


「だから翠が学園に現れた時に返事をしなくちゃいけないって思っていても……怖さもあって。でも、この学園に閉じ込められて翠と一緒に過ごして、いまの翠を見て、気持ちが決まった。だから僕は君に返事をしようと思う」


「雪也……」


 翠が、また泣きそうな顔を見せる。


「でも……ちょっとだけ待ってもらわないと」


「待って……?」


「決着をつけなくちゃいけない相手がいる」


 僕は翠にそう言ってから、廊下の奥に目をやった。


 目端に入っていた人影があった。


 薄ぼんやりと、窓からの光の中に浮かんでいたのは……仁王立ちしている、芳野春香だった。


 翠もその春香を確認し、僕がその翠を促す。


「翠。動ける?」


「ええ。なんとか……」


 二人して立ち上がる。それから僕は翠を抱えながらゆっくりと歩き出す。


 一歩一歩、牛の様な歩み。春香がその気になればすぐに追いつかれるような速度だけれど、春香は僕らの速度に合わせる様にしか近づいてこない。


 それでも少しづつ、僕らは追い詰められてゆく。


 階段にたどり着き、一歩一歩昇り、最上階に達して扉を開く。


 屋上に出た。


 光が視界に広がりそれに包まれるが、空は快晴ということもなくどんよりと曇っている。





 この屋上から学園外へ逃げられないということは数日前に確認している。


 周囲が透明なガラスに覆われた様に逃げ出せないのだ。


 春香が自らその『結界』を解くか、あるいはその春香を……どうにかするかしないと。


 僕は翠を連れて屋上の端、給水塔にまで進む。


 そこで立ち止まって振り返ると、屋上出入り口の扉に――春香が立っていた。


 僕らと春香の視線が合い、そしてその春香が無言でゆっくりと歩き出す。


 春香は、僕らの三メートル程前に達して止まる。


 これから決闘をしようかという僕らと春香の間を、ひゅうと風が吹き抜けた。


 僕らと春香の制服が、その風になびき――


 仁王立ちの春香が、僕たちを射抜くような目線で言い放ってきた。

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