第32話 出逢い①

 私、逢瀬翠は、芳野春香に教室で刺されたが、雪也の意志を確認して一旦化学室を脱出した。逃げ出したとも言う。それからかなり経つ。二時間ほどだろうか。


 私は身体を引きずりながら廊下を歩いていた。疲労と苦痛が治まらない。体力を回復させようとして腰を下ろして背を壁に預けた。


 傷口はまだ塞がらない。自分はナイトメアだ。普通の人間なら致命傷になっている傷の深さと出血なのだが、ナイトメアの私ならもうとっくに治りかけていてもおかしくないのだが……


 春香が持っていたナイフ。奇妙な紋様が刻み込まれていた。何か特別な能力が付与されたアーティファクトなのだろう。なら、この傷の深さもうなずける。


 私は体力を回復させようとして、腰を下ろし背を壁に預けた。疲労が押し寄せてきて、ふぅと息をつきながら後ろに体重をかける。


 正面を見やると、廊下の向かい側にはただ白い壁と窓。


 あの時みたいだと思った。


 私はその壁の向こうに、夜の誰もいない小さな公園を見ていた。



 ◇◇◇◇◇◇



 雪也と出逢ったのも、こんな傷ついてへたっている時だった。


 深夜。真夜中。小さな公園の樹に背を預けているホームレスの女。樹木の側に外灯が一つぽつりと。


 私はナイトメアハンターに狩られそうになって、腹をアーティファクトで深々と刺されて血塗れになっていた。


 そのハンターからはなんとか逃げ切ったが……。ちょっと傷が深すぎて……ダメかもしれない。私はここで朽ち果てるのかもしれない。


 思えば、いい事はなにもなかった。意に反してナイトメアにされて……。街に紛れ隠れる様にして時間を過ごしてきた。ハンターたちに何度も狙われ……。いつも必死で逃げ回っていた。そんな過去が走馬灯の様に浮かんでは消えていった。


 ナイトメアをこのセカイでの異物、あるいはこのセカイへの侵略者と捉えるハンターたちに狙われているとはいえ、私も異能力者の端くれだ。人間社会の法を犯せば、衣食住に不自由することはない。むしろアウトローとしてではあるが物質的金銭的には豊かな暮らしができるだろう。


 でも……私は自らの意志でナイトメアになったのではない。互いに助け合って暮らす共同体の村娘として育って、その私に親切だった村の人たちを楽しむように惨殺した高祖を見て、私だけはこうしない、こうならないと決意してのナイトメアとしての生の始まりだったのだ。





「結局何も……出来なかった……」





 ぽつりと溢すと、ぼろぼろと涙が溢れてきた。


 辛かった。悔しかった。寂しかった。怖かった。


 ちっぽけな私だけど、このセカイの形を少しでもどうにかできないかと街に飛び出して……


 でも挫折と屈服と悄然と諦観に塗れて、徐々に心の力を失ってゆき……


 結局、巡り巡ってたどり着いたのが今のこの状況だ。


 こんな生の為にこのセカイに生まれてきたのではない。


 でも私は……泥にまみれて……ここで朽ち果ててゆくしかないのか……思うともう我慢が出来なかった。


 私は声を上げて嗚咽し始めた。あああ、あああと、子供の様に泣きじゃくった。


 ――と。


「だいじょうぶ? お姉ちゃん?」


 不意に声がして、驚いてその方角を見やる。


 子供が……小学校低学年程だろうか、私を心配そうに覗いていた。


 驚いた。それが素直な感想だった。なんでこんな時間にこんな子が……。その突然の登場に私は泣くことを忘れてしまっていた。


「だいじょうぶ、お姉ちゃん?」


「あまり……」


「あまり?」


「だいじょうぶ……じゃ……ないわね」


「きゅうきゅうしゃ、よぼうか?」


「それは……ダメ。休んでれば……なんとかなる……かもしれないから」


「そうなんだ……」


 そしてさらに驚愕したことに、その子はいきなり私の隣に座った。


「みててあげる。どうにかなっちゃいそうだったら、きゅうきゅうしゃ、よぶから」


 その子はそう言って、悪戯っぽく笑った。


 涙は完全に止まっていた。驚きが勝ったからかもしれない。私は、私を気にかけてくれたその子に失礼だとも思ったが、気づいたら尋ねていた。


「こんな……正体不明の血だらけの女。怖いとか、汚いとか……思わないの?」


「思わないよ。お姉ちゃん、きれいだから。くろいかみとか、めとか」


「…………」


 私はその男の子の言葉に目を見張っていた。


 綺麗だ……なんて言われたのは生まれて初めてだった。


 嬉しいとか、そういう気持ちじゃなくて、そんな事を言う人間がいるのが驚きだった。


「こんなボロ雑巾の様な女が……綺麗なの?」


「うん」


「長い黒髪だけど手入れはしてなくて……伸ばし放題でボサボサで。服もよれよれで……あちこちに泥が染み着いてる」


「そうなの? いやそうなんだけど、でもなんかふんいきが、きれいだっておもう」


 男の子は、今度ははにかんだ様子で微笑んだ。


 その子はごく普通の小学生で、こんな深夜には出歩かないで昼間に友達と学校に通うのが日常の様な子に見えたので、たしなめる。


「こんな夜更けに……。危ないわ。家に……帰りなさい」


 と、男の子が今度は寂しそうな表情を浮かべた。


「家には帰りたくない……んだ。ひとり……だから……」


「親御さん……は……」


「お父さんはいなくて、お母さんは……かいしゃにとまりがけ。別に貧乏じゃなくて、ぎゃくにお金はお母さんがいっぱいかせいでるんだけど……」


「…………」


「僕にかまってくれる人はいなくて……」


「…………」


「だから……いつも夜は出歩いてて、お姉さんと話せて嬉しい!」


 男の子はニッコリと本当に嬉しいんだという顔で笑った。


「そう……」


 その私の返答を受けて、会話が一度止まる。


 私はそのまま目をつむり、身体を樹にあずけ休む。そうしていると回復してゆくのを感じる。


 しばらく、二人だけのじいっとした時間が、過ぎてゆく。

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