第31話 想曲②
ある日たまたま、音楽室前を通りかかると、中からピアノの音が聞こえてきた。
その曲のメロディに惹かれた。
もともと生まれた時から音楽にはあまり興味がなくて、たまに気が向いたときに流行り歌を聞く程度だった私。
だけどそのスローな曲は、時折アップテンポになって不意打ち的に私の感情を揺さぶろうとしてきた。
私は導かれるように音楽室に入った。
と、部屋の中心のピアノに、男子学生がいた。
なんというか、一目で冴えなくてイケてないとわかる、目立たない容貌の男。
でも音には惹かれる部分があって。そして曲が終わる。
男が私に気付いた。こちらを見て、会釈してきた。私も挨拶を返してそのピアノ椅子に座っている男に歩み寄った。
「素敵な曲ね。なんていうの?」
「ピアノソナタ。ハ長調。モーツァルト」
「すごく上手。憧れるわ」
「練習曲の中ではお気に入りなんだ」
私はけっこうこの男の弾いた曲を気に入ったから、この見栄えのパッとしない男に、誉め言葉を送ったのだ。
「あとは……褒めてくれて嬉しいからとっておきの曲をこれから。僕が作曲したんだ」
「うそ。すごい」
私は手の平をたたいて喜ぶ振りをした。
別にリクエストしたわけじゃない。
この男の曲は悪くはないけど、でもその程度のこと。
私の好みは、ピアノがちょっと上手い程度じゃなくて、もっとカッコよくて男前で私のアクセサリーとしてふさわしい男。
この時はまだ侮っていた。雪也という男を。雪也という存在を。
それなりにピアノは上手いけど、私の飾りにはちょっと無理かな……程度にしか思っていなかったのだ。
そして、期待していなかった雪也の演奏が始まる。
「え?」
驚愕というか衝撃だった。
リズミカルな前奏で、私の心臓は雪也のメロディに掴まれて、その五本の指でぎゅうとはちきれんばかりに握りしめられる。
鷲掴みにされた。
それから、テンポの良い旋律が続いて、気分がよくなって盛り上がってきたところで……
いきなり転調する。
明るかった調子が突然ふと反転し、私は闇の中のセカイに迷い込んだ。
暗闇に包まれる。
明るかった光の残響が残る中、行き先を失った様に私は惑い、出口を探す。
でも反転した部分は、ただただ暗いというわけでもなくて、ぜんぜん聞いたこともないような、まったくありきたりじゃないすごく変わった曲調で、それがすごく染み込んできて……
その転調部に合わせる様に私の心が怯えて切なくなる。
そしてトンネルを出る。
眩い光に包まれる。
めまいがするくらいのまぶしさの中、また明るい音が私の全身を包み込み流れてゆく。
私が揺れる。
感情が揺さぶられてどうしようもなくなる。
自我が保てない。
自意識をコントロールできない。
驚愕だった。
その曲は私の全てを表現していた。
明るいセカイを求めてその中で生きてきて、でも底の部分には闇があって。
全ての快楽と楽しみと……その隙間の寂しさと。
ただただ曲に身を任せる。
目をつむる。
生まれてきて今まで生きてきた生が私の中に広がった。
私は――目を開いて雪也を見る。
無心でピアノを弾いている男に惹かれてどうしようもなくなる。
自分の感情を抑えきれない。
なんだろう。熱病に浮かされた様に心臓がドキドキする。
心が熱い。気持ちが熱い。自分が何か別の生き物に変わってゆくのがわかる。
そして……雪也がピアノを鳴らして曲が終わる。
私は呆然と、ただただ呆然自失で、瞬きもできなかった。
自分がなんであるのか。自分がどうしているのか。何が起こっているのか。そんなことすら考えられないで、ただただ立ちつくしていた。
「どうだった?」
雪也の声が耳に届いて我に返る。
雪也が私の顔をじっと見つめている。
え? っと思って自分の頬に手を当てる。
液体の感触。濡れた自分の手を見て自分が泣いていたのだと理解する。
「ごめんね。少し……転調部がセンシティブだったかもしれない」
「え……?」
私は心が震えすぎていて、言葉が出てこない。
雪也がそんな私に言葉を続けてくる。
「人って、分かり合えないものだと思ってる」
「…………」
「でも、それだと寂しい。そんな気持ちを曲に込めたんだけど……。ごめんね」
雪也はそう言って、優しく笑った。
そうだ。分かり合えなどしない。
この二百年間で思い知らされて、だから自分のエゴと快楽を追求して生きてきた。
でも、自分は本当は寂しかったのかもしれない――そう強く思わされた。
楽しんでいたつもりだったけど、孤独だったのかもしれない。
ココロの底から実感させられ、この男となら分かり合えるかもしれない、という想いが芽生えた。
この曲を創った男となら、本当は求めていた――今そう分かった――ココロとココロの触れ合いができるかもしれない。
そんなことを思って、生まれて初めて、ナイトメアになって初めて、パートナーが欲しいと思った。
この男をパートナーにしたい。
この男を自分の唯一の伴侶にしたい。
この男がいれば、空っぽだった自分の身も心も満たされる。
衝動と希望と欲望が私の心の中から沸き起こってきた。
世の中のことなどこの二百年間で全て味わい尽くして、全て何もかもわかったと思っていた。
私の知らない事など何もないと自惚れていた。
でも、世の中は私が思うより広くて、まだまだ私の知らないことが山ほどあるのだと思い知らされた。
だって、こんな男がいて、こんな曲を弾くのだから。
◇◇◇◇◇◇
それが……私と雪也の出逢いだった。
思い返しながら廊下を進む。
一度、雪也の心が欲しいと望んでしまうとその気持ちはどんどん強くなっていった。
こんなにも雪也に夢中になるとは思ってなかった。
あの時から私は、心の底から雪也の身も心も欲しいという情念に焼かれている。
雪也のいる化学室にたどり着いて入る。
――と、雪也がいない!
予想していない事態に少しだけど寒気がした。
切られた縄が床に転がっていた。
翠が何か小細工をして切ったのだろうか?
だが、翠は手負いでかつ、この学園からは出られない。
椅子に手を置くとまだ暖かかった。
大丈夫だ。問題はないと自分に言い聞かせる。雪也は遠くには行っていない。
そして廊下に出る。血が点々と続いている。翠の残したものだ。これを追えばやがて二人にたどり着くだろう。
私は雪也への情念に燃えながら、跡を追い始める。
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