第26話 戦闘

 何かが化学室に跳び込んできた!


 その衝撃で自分から春香に寄せていた気持ち――『同意』――のタガが外れる。


 その何か――翠だ!――は、そのままの勢いで春香に飛びかかる。


 拳の連打を叩き込み、手刀を繰り出して春香の胸、腹を貫こうとする。


 それを掌で全て受けている様子の春香。二人の動きは人間のソレじゃなくて、僕の目では隅々まで判別できないけれど、春香は顔に薄笑みを浮かべていて余裕が見て取れる。


 翠が春香の頭部に回し蹴りを放った。が、春香はそれをすんでで避け、逆に翠の腹に足裏を叩きつける。


 翠が、その衝撃で吹っ飛んだ。


 そのまま背後の壁に激突する――と思ったけど、翠は勢いを殺すように二度バク転をして、壁をプロレスなんかにあるロープの様に足で利用して再び春香に飛びかかってゆく。


 が、春香はその突撃をものともせず、翠をサッカーボールの様に再び蹴り飛ばした。


 翠は弾き飛ばされ、今度こそ本当に背後の壁に全身を叩きつけて……床に擦り落ちた。


「翠っ!」


 僕は声を上げる。


 翠は床に崩れたまま動かない。


 春香が、その翠にまで無造作につかつかと歩いてゆき……へたり込んでいる翠の胸倉をつかみ上げて無理やり立ちあがらせる。


「これはこれは……。ナイトメアの翠さま。私と雪也の交情を見届けにきたの?」


 ふふっと嗜虐的な笑みを浮かべる春香。対して翠は、ぐぅと苦痛にうめきながらも春香をにらみ付ける。


「ずいぶん……雪也を……好き勝手に、して、くれたわね」


「それはもう、かなり自由にやらせてもらったけど、でも……」


「でも……?」


「楽しいと同時に辛くもあるのよ。私の中にあるSの性癖と、雪也とは本当はココロとココロで繋がりたいというヒトとしての気持ちと」


 春香が「わかるかしら?」と、翠の襟をつかみながら挑発する視線を送る。


 翠は、二度三度深呼吸をしてから、自らの足で立って春香の手を払いのけた。


「雪也が捕まっていて……様子を見ていたけど……。契約のキスだけは……させるわけにはいかないから」


「アナタの登場で雪也の同意が外れてしまったわね。本当に邪魔」


「邪魔しに来たのだから。黙って見ているときは……流石の私でもしんどかったわ」


「ふふっ」


 春香はあくまでも状況を楽しんでいるという、余裕のある様子。


 そして身振りで先輩とアカリに指示する。


 二人が挟み込む様に僕の左右に付いた。


 僕は翠と目を合わせて視線を交わす。意志の交換。「流されてはダメ」という翠と、「わかった」という僕の返答。


 春香が、翠にゆらりと語りかける。


「雪也を堕とすより先にアナタの始末……かしら?」


「簡単に……始末されるつもりはないわ。貴女がナイトメアとして私より格上だとしても」


「そう? でも今ので結果は見えたでしょ?」


 春香が言いながら、その手を翠の頬に当てた。


 翠は、その春香の手を払いのけたが……


「直接戦闘では私に勝てないでしょ?」


「…………」


「あるいは……。雪也がこちらにいるのもわかってるでしょ。抵抗しないでね」


 春香はその翠の頬に顔を近づける。そしてこれから嬲り者にする獲物を味わうというように、舌でその頬を撫で上げながら……スカートのポケットからナイフを取り出して……。まさか……と思って震える僕の前で……いきなりそれを翠の腕に突き立てたのだ!


「っ!!」


「声を上げなかったのは流石。でも痛いでしょ?」


 嗜虐的な笑みを浮かべる春香。翠が刺された! という恐怖におびえながら「やめてくれっ!」と声を上げる僕の前で、春香が翠に対して冷ややかに説明する。


「これは神器、『死夜のナイフ』。ナイトメアと言えど無事にはすまない」


「…………」


「次はどうかしら?」


 春香が刺さっているナイフを……翠の腕にねじ込んだ。


「くっ!」


 翠が苦痛にうめき、見ているだけで心臓が潰れそうな僕に、春香がちらと流し目を送ってきた。


「雪也は私と契約してくれる気持ちになった?」


「こと……わる」


 僕は歯を噛みしめて春香を睨みつける。


 と、春香は翠の腕に刺さっているナイフをぎぎーっと引き下ろし、翠の肉を切り裂いた。


「ぐぅぅっ!」


「イイ声……。濡れてきちゃう。雪也はどう?」


「やめて……くれっ!!」


 僕は叫ぶが、春香が手を緩める気配はない。


「普通の人間だと意識を失っている。でもナイトメアの翠は気絶しないし、簡単には致命傷にもならないから……存分に楽しめるわ」


「どうして……そんなに僕が欲しいんだっ!! 春香のパートナーになりたい男なんていっぱいいるだろ!!!」


「雪也じゃなくちゃダメなの」


春香は、確固とした意志のこもった声を僕に向けてから、血にまみれたナイフを引き抜いて今度は翠の腹を無造作に刺した。


「ぐぅっ!!」


 翠の顔が苦痛に歪む。


 ぜーぜーと荒い息をしている翠を悲痛な思いで見つめながら、「やめてくれっ!」と僕は必死に叫ぶ。


 息絶え絶えの翠と目が合った。


 翠は苦しみにあえいでいたけど、その目は力を失っていない。


 その瞳とともに翠が訴えてきた。


「屈し……ないで」


「でも、翠がっ!」


「ダメ。私の事を想うのなら……お願い。諦め……ないで」


 呻きと苦しさの混じった、でもはっきりとした意志を感じさせる翠の声音。


 その顔は苦しみに歪んでいるが、瞳はまっすぐ僕に訴えてくる。


「雪也。翠さんをこれ以上苦しめたくないでしょ。雪也の決心で、全てが丸く収まるのよ」


「…………」


 再び翠と視線を交わす。今度は言葉なしに。そして二人でうなずいて、目と目で意志を交わす。


 そして……僕はその僕を堕とそうという春香に言い放った。


「何をされても……もう同意しないよ。好きにするといい。俺を殺してもいいし……翠を殺しても……よくないけど……もう二度と同意はしない」


 言ってから翠を見つめる。


 脂汗にまみれた苦しみの中で翠が微笑んでくれた。


「雪也。あり……がと。雪也が、同意しないのなら……チャンスは、まだある」


 身体の力を失って春香の思いのままになっているように見えた翠が、ばっと春香を振り払った。残っていた力を振り絞ったという様子で。


「また……来るわね。ここは、いったん退散」


 そして翠は、踵を返して逃げ出した。


 あっという間に扉に達し、廊下に出たところで見えなくなる。


 春香は、追わなかった。僕を捕らえている以上、格下で手負いの翠を追う必要はない。


 いつでもどうにでもできる、あるいは放っておいても問題ないと判断しているのだ。


 部屋に流れ落ちた血を残して、翠はその姿をくらませたのだった。



 ◇◇◇◇◇◇



「とりあえず邪魔ものはいなくなったわね」


 春香が、気を取り直したという面持ちを僕に向けてくるけど……


「でも、もう僕も屈しないよ」


 その春香に向けて、僕は僕の決意を言い放った。

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