第16話 夜、春香と

「雪也君……」


「……?」


「雪也君……」


 布団の中で身を抱えて縮こまっていたときに、耳に届いた名前を認識して目を開く。


 顔を出すと、僕を覗き込んでいる春香がいた。


「ごめんなさい。寝ちゃった?」


「いや……。ちょっと眠るのは……」


「そう……だよね。少し話したいの。いい?」


「うん」


 僕は身を起こした。布団から出て春香と一緒に廊下に出て、春香に先導されて進む。


 前を歩いていた春香が止まり、くるりと振り返ってきて、ねぇと僕に話しかけてきた。


「こまっちゃった……わね。こんな状況に……なって」


 そう言った春香は柔らかな顔だったけど、表情には陰りが混ざり込んでいる。


「雪也君……。私のこと、疑ってる?」


 春香が率直に言葉にしてきた。


 僕らの置かれた状況は正直に言って異常だ。身の安全を第一に考えるなら、春香さえ敵かもしれないと疑ってかからないといけない場面だ。


 でも春香は二年になった当初から、ぼっちの僕に話しかけてきてくれた女の子で、ずっと親友として付き合ってきた。だから春香のことはよくわかっている自信がある。


 そして春香に対する感謝と愛情……これは彼氏彼女という恋情ではないけど、そういう愛情に近い気持ちも自覚している。だから、その月に照らされて柔らかく微笑んでくれている春香に、きちんと答えた。


「正直に言えば、いまの状況、置かれている場面に震えてはいるけど……」


「うん」


「僕は春香の事は疑ってない。怖くも……ない」


「ありがと」


 春香はにっこりと微笑んだ。


「私も、雪也君のことは疑ってない。心の底から……信じてる」


「あり……がとう」


 二人して見つめ合った。


 視線を合わせて微笑みを交わしてお互いを温め合ったのち、こんどは春香が怯えているという表情で顔をこわばらせてきた。


「でも……。私は今の状況は怖いわ」


「うん。怖いね」


「そう。怖い。たぶん、悪いのは誰か一人なんだろうけど、それが誰だかわからないのは……心の中がぞわぞわする。先生がいなくなった時、みんなトイレとかに勝手に出歩いてた。先輩が一番いなかった時間が長かったけど……。ほんとうに先輩? まさかアカリ? それとも……」


「それとも……?」


「翠さんのことも……正直怖い」


「うん。春香は怖いよね。僕は翠の事は疑ってないんだけど」


「怖い。けどでも……」


 と、春香が固かった表情を柔らかくほぐす。


「雪也君がいて、ちょっとだけ、心強い」


「ありがと。でも、ちょっとだけ……なんだ?」


 その気持ちを軽くしようと思って、悪戯っぽく尋ねた僕に、春香がいじらしい短い答え。


「うんん。とても」


 そして春香が僕の胸に身を寄せてきた。


 ぎゅっと。ぎゅっと、春香が僕の背に両手を回して抱きしめてくる。


「雪也君……私を支えて。私を……守って」


 春香は震えていた。小刻みに、小さな動物の様に。雨に濡れた捨て猫の様に、震えていた。


 その怯えを止める様に、僕も春香をぎゅっと抱きしめる。強く。強く。春香を抱きしめる。


 春香を守りたい。心の底からそう思った。


 今までは状況に凍えているだけだったんだけど、でも同じように怯えている春香を前にして、僕にもできることがあるんだと気付かされる。


 僕には何の力もない。翠の様な胆力もないし、異能力を持つナイトメアでもない。


 だけど僕にも春香を抱きしめてあげられる両腕がある。春香の心を温めてあげられる心がある。そう気持ちの奥底から思う。


 春香を守ってあげたい。


 僕は、月に照らされながら美しく震える春香を、抱きしめ続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る