第11話 夜、翠と

「寝てしまった?」


 横向きに寝ている僕の背後から小さな声がした。


 上半身を起こして振り返ると、上からこちらを見つめている翠の瞳と目が合う。


「少し話さない?」


 窓からの月の光に照らされた制服姿の翠が、魅惑的な視線で僕をいざなう。


 僕は立ち上がる。下着姿を翠に見つめられるのは恥ずかしいはずなんだけど、不思議と嫌だとか羞恥心は沸き起こってこなかった。


 頭の上に置いてあったスラックスとブレザーを着て、翠と二人で黙って廊下に出た。


 二人して窓枠に並んで立って、蒼い空、丸い月を見つめる。


 隣の翠を見る。月光に濡れた青みを帯びた綺麗な横顔。長いまつ毛。柔らかそうな頬。艶やかな漆黒の髪が肩から背に流れている。


 そしてその瞳は、遥か彼方の空の果てを見通すよう。


 その翠が、僕を見つめることもなく、言葉を紡ぎ出してきた。


「初めて出逢った時の事を覚えてる?」


「……」


 僕は黙って思い返す。脳裏に刻まれた記憶を。


 それから、その美しいと同時に儚さを感じさせる横顔の翠に言葉を返す。


「ごめん。翠のこととか姿とかは印象に焼き付いてるんだけど、細かいことまでは……」


「十年前の話で、貴方はまだ七歳の時だったものね」


「うん。まだ僕は小さい子供だったから……」


「でも私は長いこと生きてきて、貴方に出逢ったのよ」


「……」


 翠が昨日言っていた。自分は吸血鬼のような異能力者のナイトメアだって。長い年月を生きるものだって。そのセリフを思い出す。


「私と貴方は出逢って一夜を過ごしたわ。それは私の人生を変える程の出来事で……」


「会ったのは、覚えてる」


「約束を覚えていてくれなかったのは……残念を通り越して無念だわ」


「ごめん。細かいところまでは……。ごめん」


 僕は、『嘘をついて』謝った。前よりも翠に気持ちは近づいていたけど、まだ翠とどうするかは決められてなかったから。そしてそれよりもまず今の状況をなんとかしなくちゃという思いが強かったから。


 すると空を見つめていた翠がこちらに顔を向けて、僕の心の奥底をのぞくように真っ直ぐ見つめてきた。


「そのとき私は貴方と、貴方が成長したら……十年したら……返事を聞きに来ると約束したの。だから私はこの学園に、貴方の前に現れたわ」


 吸い込まれそうな黒真珠の瞳。その意志の奥は、今の僕には見通せない。


「私は孤独だった……。ずっとずっと永い間、孤独だった。貴方はその孤独な私と一緒に生きてくれると言ってくれた存在だった。幼いながらも、私の心を温めてくれた」


「……ごめん」


 僕の謝罪をどう捉えているのかわからないけど……翠は一泊置いて続けてくる。


「ナイトメアは一生に一人だけ『パートナー』を作れるの」


「パートナー?」


「ええ。二人の『同意』による『契約のキス』で、ナイトメアと相手は唯一のパートナーになれるわ。パートナーは魂の伴侶。ナイトメアと同じ永い生命を得て、共に生きてゆくことになる」


「永い生命なら……すごくいいことだと思うけど……」


「普通の人なら喜べないことの方が多い……と思うわ。互いに肉体と精神がリンクし合うし、どちらかが死ぬ以外に契約を解除する方法もない。外見が変わらなくなる等の身体的変化もあるから、表の人間社会で堂々と生きて行くこともかなわない。影に隠れてひっそりと……二人肩を寄せ合って時を過ごしてゆかなくてはならない」


「それは……」


「そう。それがナイトメアとパートナー」


「重い……関係だね」


「ええ。雪也に日常を捨てて私と二人だけの非日常を選んでと言っているのだから」


「うん。翠の言葉が重くて真剣なのは、わかる」


「雪也」


 翠が僕の眼前から。息がかかりそうなくらい近くから、僕のまなこを真剣そのものの瞳で見つめてくる。


「閉じ込められているこの状況で聞くのもなんだけど……。私は雪也に返事を聞きに来たの。私のパートナーに……なってくれる?」


「…………」


 答えられなかった。


 むかし翠と夜に出逢って朝まで一緒に過ごしたことは、はっきりと覚えてる。その時の会話の内容も、全部記憶にある。


 でも、答えられなかった。


 ナイトメアという単語。吸血鬼みたいな種族。異能力者で年を取らない外見。正直、どう返していいのかわからない。


 もちろん、転入してからの翠には強く惹かれている。いい人だという認識もあるし、過去の出逢いの想い出もある。昨日、閉じ込められたときに一緒にいるのが心強くて頼りがいがあって安心感があると言ったのは嘘じゃない。


 でも……よくわからないナイトメアという種族の人とパートナーというものになるのは、どうにも困惑というか躊躇があるのも事実だった。


 一般人が触れてはいけない禁忌みたいな感覚。なんというか、『こちら側』の世界じゃなくて『あちら側』の世界の、忌み子みたいな女の子。翠は綺麗すぎて魅力的すぎて、僕を惑わしにかかっている怪異だとさえ思える。


 むかし出逢った翠は僕の心にすごく印象に残っていて、とても綺麗で、とてもとても魅力的で。でも……今は戸惑いを完全には押しつぶし切れない。それはどうしようもない。


「まだ心は決まらないのね」


「……うん」


 僕はうなずいた。


「私のこと、怖い?」


「……怖い……ところも……ないわけじゃない」

 今度も僕は正直に答えた。無礼だとか失礼だとかとは思わなかった。きちんと自分の心を伝えた方がいいって思った。それが僕に対して真っ直ぐに向かってきてくれて、自分の正体を明かしてくれた翠への敬意だとも思っているから……


 そんな、透明な月光の中で黒く輝いている翠の黒髪と瞳――からは逃れられないと思える、二人だけの深夜の秘密の会話だった。

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