第四話 ノロ教授(その六)

 不意に肩を掴まれて反射的に鉈を抜いた。

 受け止められる感触があって何か声が聞こえてくる。耳を澄ませてみれば自分を呼ぶ声だった。

「・・・・さんっ。邑﨑さんっ正気に戻って下さい」

 肩越しに振り返って見れば、山根とかいう名の男が必死の形相で鉈を握るあたしの拳を受け止めていた。青ざめた顔色が尋常では無い。後ろには先程の警官の姿もある。こちらは目を剥いて硬直していた。

「山根さん・・・・」

「わたしが分かりますか、良かった」

 あからさまな安堵の吐息だった。

 気が付けば、あたしは床に片膝を着いた姿勢で上半身だけを振るっていた。至近距離で勢いが着く前だったから良かった。完全に振り抜いていたら彼の掌を撥ね除け、そのまま腕を切り落としていたはずだ。

 鉈を鞘に納めて立ち上がると頭を垂れた。

「すいません、あたしどうなっていましたか」

「この部屋の中で片膝を着いてうずくまっていました。何度も声を掛けたのですが返事が無くて。肩を叩いたらいきなり」

「申し訳ない、どうもヤツのまやかしに引っ掛かっていたみたいで」

「邑﨑さんほどの方がですか」

「なまじ見知った相手だったので油断しました」

 その時になってようやく、胸元に二つ折りされたメモ用紙が差し込まれていることに気が付いた。拡げてみると見慣れた文字で何事かが記されている。


 キコカくん。久方ぶりに会えて嬉しかったよ。豚肉のブロックだけでは物足りないので、きみの記憶を少し読ませてもらった。なかなか興味深く、少なからず探究心が刺激された。今回はコレにて等価としておこう。

 ではまた何れかの淵で会おう。息災でな。


 思わず苦笑した。やれやれ妙な所で律儀な教授である。その気になれば、あたしごと屠れたものを。

「それでヤツは?」

「穴の向こう側に戻ったようですね」

 そう言ってメモ用紙を折りたたむとスカートのポケットの中に押し込んだ。がらんとした部屋の中にはもう、あのヒリつくような不快感は無い。ただ虚ろなもの寂しさがあるだけだ。

 法陣の脇に置いてあったスーパーの袋は、綺麗さっぱり消え失せていた。


 当時の新聞記事に目を通してみた。

 センセーショナルで派手な記事が乱舞し、次第に尻つぼみになってやがて忘れられてゆく様はどの事件も同じだが、こと自分がしでかした事柄、通称「○○地区女子高生活人事件」に関しては驚くほどに記事が慎重で大人しい。

 発端の事件が余りにも派手だったということもある。

 表向きは薬物中毒者が、刃物を持って文化祭の行なわれている学校に侵入。生徒八名、教員一名を殺傷。その場で解体を始めた。日本の犯罪史上でも極めて稀で残虐残忍な凶行、という事になっているが、マスコミを含めてそれを信用した者が果たして何人居たことか。

 あの惨状を目の当たりにすれば、とても人間業では無いと確信出来る。そしてその場に居合わせた衝撃を、どう言い表せば良いのか見当もつかない。ましてやそれが肉親であれば尚更だ。

 何時もと変わらぬ目覚め、何時もと変わらぬ朝食、冗談を交わして出かけてゆくその後ろ姿を見送った。その妹が、わずか数時間後に物言わぬただの肉塊に成り果てるなどと、誰が想像できるのか。

 あの時どうにか出来なかったのかと、悔いぬ者が居るのか。

 当時の自分が精神の平衡を欠いていたことは間違いない。

 ならば、今は真っ当なのかと問い返されれば躊躇せざるを得ないが、あの頃よりは随分マシだとは言える。何しろ寸暇を惜しんであの禁書を読み耽り、再生への道筋を見つけることに躍起になっていたからだ。普段の精神状態ならばその内容そのものを信じはすまい。

 だが不幸にも(当時の自分としては幸運にもと言うべきか)件の本を教授の蔵書から見つけ、彼の御仁が淵の奥に沈んだと思しき、無数の研究ノートと実践記録を発見してしまったことが事の始まりだった。

 しかもそれは、妹に不幸が降りかかる以前であったのだ。タイミングは良かったのか悪かったのか。

 教授のノートによれば、この本は死者を蘇らせることが出来るらしい。

 常軌を逸した者の戯言と片付けるのは容易いが、自宅の部屋から膨大な量の「実測データ」や様々な「実物」を目の当たりにすれば、よもやという気持ちも湧いてくる。だがそれでも通常の者ならば、凝ったオカルト研究録と一笑にふして終わるだろう。

 しかし溺れる者は本当に藁にもすがる。それを身を以て知ることになった。

 逝ってしまった者ともう一度会いたい。

 妹の笑顔をもう一度見たい。

 あんな、むごたらしい死に様であって良いはずがない。

 あの子はまだ高校生なのだ。

 呼び戻すことが出来るのならば、如何なるものでも支払おう。  

 お陰でバラバラの肉塊だった妹の遺体を冷凍保存することを思いつき、大学の冷凍保管庫の片隅に隠した。

 それが踏み外した第一歩。前に進み出したらもう止らなかった。坂道を転がる石が次第に勢いを増してゆく様に似ている。ドン突きに当たるまで止る筈がなかった。

 教授は集団無意識の奥を「淵」と呼び、人類が出会ったヒト為らざるモノとの邂逅と、ソレから得た人外の知識も其処に蓄えられていると信じたようだ。

 そして淵の奥を覗き込むことが出来れば、本を完全に読み解くことが出来る。

 だがその怪しげな穴の奥を探る手がかりが、その本の中にあるというのは何というパラドックスか。開け方の分からぬ箱の中に、その開け方が入っているようなものだ。目的を果たすにはどうあってもコレを読み解かねばならない。

 だがやはりヒントは教授の研究ノートにあった。

 メモと所見によれば、この本を書いたのはヒト為らざるモノであってヒトの言語とはほど遠い。

 人類の言葉が、人種地域国などが異なっても翻訳することが出来るのは、同じ生き物の言語野から生み出された言葉だからであって、自分達でも気付かない内に人類共通の文法に則っているからである。

 平たく云えば、人間は人間以外の言語を理解することが出来ないのだ。だが完全な理解は不可能でも、近似的な意味合いはくみ取れる。しかしそれには多種多様の知識と、個人では構築できない膨大な量の論理と、異なる物の見方が必要だ。その為には「淵」を覗く必要があるとの御仁は信じたらしい。

 教授は発狂の精神状態が、無意識の領域とつながり易いのではないかと予測した。

 その状態なら淵から知恵を借り、何某かの法則を見いだせるのではないかというのだ。でもだからといって、それを容易く実践出来るはずがない。異常な状態で冷静な分析が出来るはずもないからだ。

 正直に言えば、自分が何故これを読めるようになったのか分からなかった。

 ある日突然文字と文法の法則性を見いだして、その後はもつれた糸が解けるかのように読み進めることが出来るようになった。まるで見えない小人に耳元で囁かれたかのようだ。

 幾度となくリストカットを繰り返したせいなのか。それとも農薬を飲んでは自殺に失敗し、悶絶してのたうち回り死の淵を覗いたせいなのか。それともきらめき眩いだけの絶望に呆然とした日々を過ごしたためなのか。理由はとんと見当がつかなかった。

 よく聞く、「本に認められた」という逸話が一番ぴったり合いそうだ。

 その後の顛末は、自分の自供と事件のあらましを追ったマスコミの記事(事実とはほど遠いが表向きの全体像)や警察の事件報告書の方が詳しい。当の本人が忘れてしまったことまで、子細漏らさず実に緻密に記録されている。大した物だ。

 特に面白いのはゴシップ記事で、大手新聞社の行儀の良い記事とは事なり『死者再生は密教の秘技によって生み出された』とか、『秘密結社が闇の怪物を呼び出しその煽りで高校生は惨殺された』とか、『政府がひた隠しにする宇宙人の技術で細切れになった死者をつなぎ合わせて人間を作り上げた』とか、正に玉石混交真偽乱れて実に興味深い。微妙に事実を突いている部分と全くの空想部分とが混じり合って、絶妙な味わいを出している。

 白眉は『とある殺人事件の被害者の兄は精神に異常をきたし悪魔と契約した。自分の脳を殺された妹の身体に移植して再生者として復活。現在もその犯人を追っている』とするオカルト記事で、これは自分がやったことそのままではないかと思わず笑ってしまった。

 中途半端なスクープ記事から想像力豊かな記者がひねり出しているのだろう。

 或いはひょっとして、事実の一部を小出しにしてトンデモ記事として流布し、世間の常識との間に一種の緩衝材を作ろうとしているのかもしれない。

 万が一何かが洩れたときに備え歪んだ予備知識を流し、またしても荒唐無稽な話が出たと、そんな具合に認識してもらえるように。

 全くのゼロよりも、慣れ親しんだ情報で紛らわす方が隠蔽もし易かろう。

「こうして読み返すと資料編纂業というものも莫迦に出来ないもんだ。良くまとまっていて分かりやすい。事件の概要が手に取るかのように判る。そう思わないかねデコピンくん」

 足元にうずくまるほぼ真っ黒な白黒ブチ猫は、眠たそうな目で軽く一瞥しただけで再び目を閉じてしまった。

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