第四話 ノロ教授(その四)

「巷では、わたしのように向こう側に堕ちたモノには知性が無いと言われとるらしいな。或いは這い出てきたモノと言い換えた方がより正確かもしれん」

「唐突にどうしたのですか」

「今、きみの脳裏に浮かんだ一節だよ。最近何かあったか」

「言う必要はありません」

「こうやって会話が成立しているように見えるのは、ただの形態反射か」

「やかましいですね」

「取引が成立するのだから確かに知性はあるのかもしれない。しかし価値観は違う。倫理観も違う。別の生き物なのだから仕方が無い。でも境界さえ弁えておけば、無駄な争いは避けることが出来るのではないのか」

「少し黙って頂けませんか。さ、戻りますよ」

「堕ちる者が増えれば、わたしのように取引することが出来るモノが増えるかも知れない。増えないかも知れない。何せ淵を覗き込んだ者の大半が発狂してしまう有様だ。が、全てではない。わたしのような例外も居るからね。

 意図的に選んだ者を落とすというのは、悪くないアイデアなのではないのか。三十年以上あそこの穴を開く術式を、未だに保持し続けていたのもその証拠。取引者を得、穴の奥から今まで汲むことの出来なかった知恵を吸い上げることが出来るのではないか。

 長い歴史の中で偶然開眼する者も居るが、そんな者は本当にごく稀だ。指を咥えて、恵みの雨が降ってくることを祈るよりは余程に有意義であろう。上司や更にその上の連中は、そのような思惑を抱いているのではないか。きみはそう疑念を抱いている。違うかね」

「本当にうるさいですね。運ぶのが面倒なので歩かせようとしてますが、五分どころかこの場でミンチにしても良いのですよ。もしかしてそちらの方がお望みですか」

「ふふ、歩くよ歩くよ。折角きみからもらったコレを細切れにしてしまったら申し訳ないからね」

 そう言って手に下げた買い物袋を少し上げて見せた。

 頭の上半分が掻き消えた白衣の教授は、ふらりふらりと頼りの無い足取りで路地を出、繁華街の中を歩き始めた。異様な光景の筈なのだが、それを見咎める者も騒ぐ者も誰一人として居なかった。

「キコカくん、きみは今警察の仕事をやっているのかね」

「無断であたしの頭の中を覗かないで下さい。名前もそうですが」

「固いことを言うな、きみとわたしの仲ではないか。色々と不満は渦巻いておるようだな。この状態では表面しか判らんが、感情がふつふつと静かに煮えているのは見て取れる」

「教授。あなたへの最大の不満はですね、私が願ったのは彼女の再生であって『あたし』としての再生ではないということです」

「うむ、それに関しては些か悪い事をしたと思っておるのだ。だが用意されたモノに肝心要の部分が微塵も残って無かった。ほんの一欠片でも残っておれば、淵より探して引き上げることも出来たものを。よって次善の手段を取るしか無かった」

「まぁ薄々そういう事ではないかと思っていました」

「しかもアチコチつぎはぎになってしまった。折角きみが全てを注いだ願いだと言うに」

「そうですね」

「怒らんのかね」

「怒って解決しますか」

「せんな」

「でしょう」

 さして早くもない足取りだったが、それでも順調にあの現場に辿り着いた。

 だがそのまま封鎖線のテープを乗り越えて入ろうとすると、一人の警官に誰何され止められた。しかしそれはあたし一人で、件の教授だけはふらふらと中に入り込んで行くのだ。

「だからあたしは捜査関係者だと言っているでしょう」

「何を言っているのかね、きみのような女学生がそんな筈は無かろう。デタラメを言うのは止めなさい。此処はドラマや映画の撮影をやっているのではないのだよ」

 身分証を持ってくれば良かったと後悔したが後の祭り。押し問答をしている内に教授が見えなくなってしまった。仕方が無いので警官の向こう脛を蹴りつけると、相手は奇妙な悲鳴を上げて悶絶した。

 うずくまるその脇をすり抜け、封鎖線を飛び越える。手加減したので折れてはいないと思うが構っている余裕はない。そして建屋の中に駆け込んだ。

「教授?」

 声を掛けたが返事は無い。

 それを期待した訳ではなかったのだが、反応が無ければ少し焦れた。窓は戸板で封鎖され、薄暗い階段脇の廊下を真っ直ぐ行くと突き当たりには小さな講堂があり、そのドアを開けるとソコにはやはりあった。三二年前に自分が描いた召喚陣が。

 だが奇異なモノが一つある。陣の端に置かれたスーパーの買い物袋だ。近寄って中を確かめてみれば間違いない。先程自分が教授に手渡した豚肉だった。此処にまで来たのは確かなのに本人の姿は何処にも無かった。法陣はまだ開いたままだから本人が穴に戻った訳でも無さそうだ。

「何処に行ったあのボケ教授」

 立ち上がろうとして首筋にチクリと何かが刺さった。しまったと舌打ちし首筋を押さえて腰の鉈に手を伸ばした。だが振り替える前に目が眩み膝が折れ、そしてそのまま無意識の世界へと引きずり込まれていったのである。


 酷い事件だった。

 いやそれを単純に事件と呼んで良いのかどうかは分からない。だが現場は凄惨で目も覆わんばかりの惨状だった。正直正視に耐えられず嘔吐している者が何人も居る。無理も無い、そこでは複数名分の人体が、まるでジュースミキサーにでもかけられたかのように分断され、文字通り木っ端微塵になって散らばっていたからだ。

 一人の青年が泣き喚いていた。

 少女の名前を叫びながら血の海の中で這いずり回り、その一部と思しき部分を必死になってかき集めていた。

 肉体が「少女」と判別出来るのは辛うじて胸から上くらいのもので、それ以外のものがことごとく欠損していた。顔も半分が削り落とされ、見えては為らぬモノがアチコチからはみ出していた。酷くクセのある黒髪は赤い体液で濡れそぼり、元の色が本当に黒かったのかまともに判別出来ぬほどだった。

 青年の身体も非道い色合いで見るに耐えぬ有様だったのだが、それらは全て彼自身が流したものではなく、この惨状の中を泣きながら少女の部品をかき集めたが故のことであった。

 見るに見かねた者がもうよしなさいと青年の肩を叩いて引き留めるのだが、振り払い、切り取られた頭蓋と左足がどうしても見つからないと、顔を覆ってうずくまり、獣のごとき声をあげて慟哭するのだ。

 遠くから聞こえるパトカーのサイレンが徐々に近付いて来ていた。

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