伝えると伝わってしまうこと

 私は物語が好きです。

 特に小説が好きですが、映画やアニメ、漫画でも物語を語れます。

 同じ物語を小説とそれらにする場合で、どこが違うでしょうか。



 小説の特徴は、当たり前ですが、文字による文章であることです。

 朗読されるために書かれたものだとしても、その前に文字で記されます。


 記すのは、ストーリー・登場人物・情景・世界の設定など小説の中身、即ち物語です。

 小説を書くには、物語を作る力と、それを文章で表現する力の両方が必要になります。

 漫画や映像作品の場合、文章力のところが絵を描く力や映像で表現する力に置き換わります。


 もし、漫画の絵が下手だったら、読む気がなくなることもあるでしょう。

 映画で映像の作り方が稚拙ちせつで見にくかったら、内容が頭に入ってこず、楽しめないかも知れません。


 同様に、小説では文章力がとても大切です。

 文章が下手だと読んでいてつらいです。

 内容の想像や理解が上手くできないこともあります。


 逆に、絵が上手い漫画家の場合、ページをめくる手を止めてじっと見入ってしまうことがあります。

 小説でも、文章自体の美しさが楽しさに含まれます。

 上手な文章は内容がきちんと伝わるだけでなく、読んでいて心地よいです。


 四コマ漫画のかわいらしい絵や、戦闘物の勢いと迫力のある激しい絵もあります。

 文章も、笑いを誘う軽妙な語り口や、文語を多用した堅苦しい歴史語り、おどろおどろしい雰囲気のホラーなど、工夫次第で様々な印象を与えられます。

 文体は文章の味わいを大きく左右する重要な要素なのです。



 では、文章という表現手段の特徴はどこにあるでしょうか。

 いくつかあると思いますが、最も大きいのは言いたいことを直接書くことが可能なことです。

 事実の要点をずばりと書いて断言でき、読者にその対象をどう受け取りどう解釈してもらいたいかをはっきり示せます。


 まず、情景や事物じぶつの描写がやりやすいです。


「空は雲一つない快晴だった。」


 文章なら漢字二字ですむ「快晴」を、白黒の漫画でセリフ無しで伝えようとすると非常に手間がかかります。


「彼女は美貌にあでやかな微笑みを浮かべた。」


 「美貌」と書けば彼女が美人であることは確定します。

 「艶やか」と言葉で書くことで、どういうイメージを読者に持ってもらいたいかをはっきりと伝えられます。


 雰囲気や感情も同じです。


「恐ろしい物音がした。」


 これを効果音で表すには、随分と頭をひねることになるでしょう。

 漫画の場合は、擬音語ぎおんごを大きく立体的に描くといった工夫が求められます。


「彼女は悲しかった。」


 登場人物の気持ちも、こう書くだけで事実として伝わります。

 演技や動きや絵、音楽などで伝えるにはそれなりの技術が必要になるでしょう。


 このように、文章は読者にその対象をどう思ってほしいかをはっきりと伝えられます。

 これに対して、絵や映像作品の場合は見る人の解釈が入ります。

 解釈の仕方を誤れば、作り手の意図と異なる意味を読み取ってしまいます。


 微笑みを「艶やか」、物音を「恐ろしい」と思うかどうかは、人によって判断が分かれます。

 その女優を「美人」と思わない人もいるでしょう。

 このため、「美人」と登場人物たちが思っていることを行動やセリフで示して、どう受け取ってほしいかを伝えなくてはなりません。

 文章なら、文字ではっきり書けば間違いようがありません。

 「美人」と書いて細かい点をぼかしておけば、読者が自分の基準に合った美人を想像してくれます。


 そもそも、「快晴」の空を映しても、それに気付かない視聴者もいます。

 人物など焦点しょうてんが当たっているもの以外は目に入らないこともあります。

 画面の中の多くの情報を一瞬で全てきちんと受け取るのは不可能なのです。

 そこがどんな部屋かは分かっても、一時停止するなどしないと、家具に施された彫刻や食器棚に並ぶ皿の枚数、壁にかかっている絵画などは見て取れません。

 それでよいと作る方も思っているでしょう。

 その点、小説など文字で書かれたものは、読み手が意図的に飛ばし読みや流し読みをしない限り、一文字残らず目を通してもらえます。


 こうした特徴から、文章は説明が得意です。

 特に、複雑な問題や込み入った事情を解説するのに適しています。


 大きな戦いがあって、それが起こった理由や周辺国の情勢を語ろうとした時、映像や音だけではとても難しいです。

 登場人物のセリフで示すこともできますが、非常にくどくてわざとらしくなります。

 どうしても細かい説明が必要な場合は、図などに加えて、文字の表示やナレーションといった文章の使用が避けられません。

 その点、小説なら論理的かつ詳細に語ることできます。

 読んで面白いかどうかは書き手の力量によりますが、ずばりと書くことができるのは大きな利点です。


 逆に、簡潔にまとめることも文章は得意です。

 登場人物の人柄や特徴を数語から数行程度で紹介できます。

 過去のちょっとした逸話なども、数段落から数ページ程度で記述することが可能です。

 漫画や映像作品の場合、同じ内容をナレーションや文章を使わずに伝えようとすると、大変な長さと手間になることが多いです。


 また、概念を表す言葉を自由に使えるため、思想や心の中で思っていることなど、目に見えないものを語るのにも向いています。

 映像メディアの場合は、俳優の演技や効果音や音楽、映像表現から読み取ってもらうことになりますので、視聴者が予想でき思い付ける範囲のことしか表現できません。

 それ以上のことは言葉を使うしかないのです。

 そして、そうしたメディアの作品は、解説の字幕やナレーションが長いと確実に退屈するため、簡略化して要点のみを伝え、多くを想像にゆだねることになります。


 同じ理由で、映像が苦手とする味やにおいや肌の感覚も文章は得意です。

 これらは目に見えず耳にも聞こえない点で、概念やイメージと似ています。

 「とろりとまろやかで甘くやさしい味のシチューだった。」

 「オレンジとミントの混じったような不快なにおいがした。」

 「ひんやりと冷たく弾力があって表面はざらざらしていた。」

 これらを台詞なしで伝えるのは苦労するでしょう。

 知っているものを思い出して想像してもらうので、知らない人に伝えるのは難しいという欠点はあります。


 なお、絵や映像の場合、素敵だなと思っても、それを離れたところから眺めています。

 耳で聞く場合も、一歩下がって待ち受けている感覚があります。

 一方、文章を読んだ時は、自ら情報を取り込みに行き、その映像が頭の中いっぱいに広がります。

 脳内が素敵なもので満たされるのです。

 美しい言葉ではっきりしたイメージを届けてくる文章を読むと心地よいのはこのためでしょう。

 面白い小説を夢中で読んでいる時の没入感は、時間を忘れ、周囲の状況が目や耳に入らなくなるほどです。



 一方で、こうした特徴は文章の難しさの根源でもあります。

 要点を書けるため、要点がないと分かりにくくなるのです。

 例を挙げます。


 若い美女が水着で砂浜を歩いています。

 彼女が白い服を着て木陰こかげで読書しています。

 振袖ふりそで姿で寺院を訪れ、手を合わせて祈りをささげています。


 絵や映像なら、これらがただ並べてあるだけでもそれなりに楽しめます。その美女に心かれるなら、お金を払って買う価値があるかも知れません。

 しかし、文章の場合、いかに詳しく具体的でイメージ豊かに描写されていたとしても面白くはないでしょう。

 要点がないからです。

 要点とは、それを書いた目的のことです。

 書き手が伝えたかった何かがあって、初めてそれぞれの記述や場面が意味を持ちます。


 文章では、絵や動きだけでは駄目で、美女が水着でそこにいる理由、その前後の状況、彼女が感じ考えていること、他の人物との人間関係といったものを添える必要があります。

 また、なまめかしい、あどけない、物憂ものうげ、寂しそうなど、解釈や印象を伝えなければなりません。

 どういう風に受け取ってほしいのか、何を楽しんでもらいたいのかを書き手が示さないと、読み手は理解の仕方が分からないのです。

 写真や絵と違って好きなように眺めるわけには行きません。


 アニメや実写映像がアクションを得意とするのは、動きの迫力や躍動感やくどうかんで楽しませることができるからです。

 音楽や文章のリズムのように、動く映像は体の奥底に響き感情を揺さぶります。

 人には動くものに注意を引き付けられる動物的な感覚や本能があるのかも知れません。


 文章はそうしたことは苦手です。

 ただ単に動きだけを書いても駄目なのです。そこに意味がなければなりません。

 なぜ彼は飛び上がったのか。どうして彼女は走り出したのか。

 動きから目的と感情が読み取れなければなりません。

 小説とは表面的な事実ではなく、その後ろにある登場人物たちの感情や意志や願いといった心の動きや、それらがからみ合うことで浮き彫りになる思想や哲学を、描く芸術なのかも知れません。

 だからこそ、小説で登場人物を書き分けるには、外見や身のこなしのくせを詳述しょうじゅつするより、言動に特徴を与えて人柄や内面をイメージしやすくすることが重要なのです。

 小説全体でも同様で、テーマなど中身となるものが必要となります。

 いくら派手な表現や変わった文体を工夫しても、要点がないと上滑うわすべりしてしまうのです。


 また、小説では視点が非常に大きな問題となります。

 登場人物の誰か即ち物語の当事者たちの目から見るか、無関係な第三者の立場から眺めるかの違いは、物語の雰囲気や臨場感に大きく関わるだけでなく、読者が記述された事実をどのように解釈し受け止めるかに影響を与えます。

 舞台となる場所や社会の構造と、語り手の個性や思想がどのようなものか、書く前に決めておかなくてはなりません。


 こう考えてくると、文章を書く上で最も大切なことが分かります。

 それは、目的を意識し、全ての表現をその実現のために作ることです。

 そして、その目的にふさわしい「構成」を用意することです。

 それにより、全ての場面や記述が意味を得て、読み取らせたい、伝えたいことがはっきりと浮かび上がります。


 ゆえに、小説には計画が欠かせません。いわゆるプロットです。

 細部は書きながら調整すればよいですが、その作品で何をやりたいのかを明確にして、その実現のために各場面をどう並べるかを考えておくことは非常に重要です。


 長期間連載される漫画には、先がどうなるか作者にも分からない作品が少なくありません。

 その回が面白ければよいという考えが許容される雰囲気が、漫画やアニメにはあります。

 これは絵で表現するという特性からくるものでしょう。

 キャラクターたちが活躍して魅力的に見える出来事があれば、全体の大きな流れが感じられなくても成立します。


 しかし、小説の場合は、物語の流れがゆるやかにでも継続していて、全体で大きなまとまりがあることを求められます。

 計算された論理的な構成がない小説は、どこか曖昧あいまいで危うい感じがします。

 小説以外の文章も、全体の流れと組み立て方を書く前にある程度決めていないと、読みやすく仕上げるのは難しいでしょう。



 もう一つ、文章には大きな特徴があります。

 何を書くかを書き手が決められることです。


 例えば、ある場面の舞台が高校の教室だったとします。

 漫画やアニメや映像作品ならば、ある程度写るものが決まっています。

 しかし、小説の場合、窓の大きさ、机と椅子の形や数、床が木かカーペットか、黒板が何色かといったことは、作者が書かなければ伝わりません。


 教室の後ろに貼られた書道の作品や時間割表も、書かれている文字や内容が重要でないなら、ただそういうものが壁に並んでいることだけを記述すれば足ります。

 絵や映像の場合は、何が書かれているかを決めなくてはならないでしょう。


 文章は細かい形や音などを正確に伝えるのは苦手です。

 絵なら一目で分かるものでも、読者の頭にはっきりと浮かぶように表現するのは非常に困難です。

 どうしても印象や概略や要点で伝えることになります。


 これは欠点でもありますが、利点でもあります。

 目的のために重要でないことは省略したり曖昧なままにしておいたりできるのです。


 嫌でも書かざるを得ないことが、小説はとても少なく、必要最低限の記述ですみます。

 書かなかった部分は読者が自分で補います。その方が読者にとっても好みに合わせられて心地よいのです。

 このため、絵や映像のように全てを作り手が決めてしまうものよりも、物語に没入しやすいです。

 小説では、書かれていることは、ほとんどの場合、作者が書こうと思って書いたことです。


 しかも、先に述べたように、小説では、作品内の事物に対する判断は語り手が下し、読者はそれに従うのが当然とされます。

 地の文に「広い教室」と書かれていたら、その教室は広いと確定します。読者はそう思って読まなくてはいけません。私の基準だと狭いよ、というのは許されません。

 そもそも、語られたことから想像するしかないため、「広い」という判断を補強する情報しか書かれていなければ、違った考えを持つのは難しいです。

 矛盾する記述があるような場合を除けば、疑問すら浮かばないのが大抵でしょう。

 逆に、敢えてぼかした書き方をして解釈の余地を残すことも可能です。


 漫画や映像作品でも似たことは行われますが、文章はより強力に働きかけてきます。

 すぐれた書き手はこれが上手です。

 ある小説のイメージを青と決めたとすると、青の印象を与える要素・言葉のみを選び、他の色のものを極力排除して、物語を青一色に染め上げることができます。

 上手く物語に引き込めれば、青い世界を楽しんでもらえます。


 しかし、見方を変えれば、これは意見の押し付けであり誘導です。

 赤だと思っている人も多いものを、青で統一するため、言葉巧みに言いくるめることもできます。

 戦場に散らばる多数の死体には触れずに、英雄の活躍と神の祝福を強調することもできます。

 学校で友人と昼食を食べながらの会話といった、冷静に考えればありふれた大したことのない出来事を、どきどきしたり緊張したりする涙や笑いにあふれた大事件のように記述することもできます。


 これを悪用すると、自分の主張を正当化することも可能です。

 自説に対する有効な反論を思い付いても書かず、自説を強化する事実ばかりを並べることができます。

 小説内で強引な出来事を起こしても、それが当然で素晴らしいことであるかのように書くこともできます。


 これは一見、作者にとても有利に見えます。

 しかし、作者の意図をさらけ出すことでもあります。

 何を書いて何を書かないか、どう表現したかには、意識的にしろ無意識にしろ、作者の考えが反映されます。


 例えば、教室の記述からは、作者がどういう教室を想像し、そこをどういう場所と思っているかが分かります。教室という場所への知識や理解、作者の想像力の程度が透けて見えるのです。

 教室の場合は大きな差はないかも知れませんが、対象物によっては作者の思想や趣味が浮き彫りになります。


 また、はっきりと書ける言葉の特性から、使い方を間違えると悪い印象を与えてしまいます。

 無神経な言動をした人物を「心やさしい」と書いたら、読者は驚きます。

 そういう人物をなぜそんな風に表現したかを読者にきちんと伝えることを求められるのです。


 何を書くか、どう書くかによって、作者の内面が見えます。

 演出や味付けという言葉では言い訳できません。

 作者は明確な基準を持ち、それに基づいて記述しなければなりません。


 発言は行動の一つです。

 行動には責任が伴います。

 よって、発言にも責任が伴います。


 小説の作者もこの責任から逃れられません。

 それを自覚しているかどうかも文章から伝わってしまうのです。


 文章力があるとは、一つ二つ気のいた文句を思い付けることではありません。

 文章の特性を理解し、それを生かした記述や構成を組み立てられてこそ、そう言えるのではないでしょうか。



 文章からは、書き手について様々なことが否応いやおうなしに伝わってしまいます。

 何を何色に染めたのかを意識し、本当にそう書いてよいのかと自分に問い続けなければならないことが、文章を書く難しさだと思います。

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