二章 きみは、なんて名前がいい?

二章 きみは、なんて名前がいい?


「よし、ここまでは誰にも声をかけられずに戻ってこれた」

 ぼくはできるだけ人目につかないよう、トイレットペーパーを上着の中へと隠しながら自宅マンションの前まで走ってきた。

「ペパァ」

「あわわっ、静かにして! もう少しだから」

 上着の中でモゾモゾと動きながら鳴くトイレットペーパーに言い聞かせると、大人しくなった。

 生きたトイレットペーパーなんて、みんなに知られたら大騒ぎになってしまうだろうし、気をつけないとね。

 エレベーターで五階まで上がり、無事に玄関前に到着したけれど、おとなりさんが突然ドアを開くかも知れないし、部屋に入るまでは安心できない。

「あとはお母さんに見られないようにしないと……」

 ぼくの部屋は玄関を抜けてすぐだから、お母さんがリビングでテレビでも見ていてくれたら、問題なく戻れるのに……。

 そうっとドアを少しだけ開けて中の様子をのぞいてみると、部屋の近くには誰もいない。

「よし! 今のうちだ」

 用心しながら玄関に足を踏み入れ、ドアの音ができるだけ聞こえないように、静かに閉めた。

 あとはこのまま部屋まで行けば、トイレットペーパーを誰にも知られずに済むぞ!

「ペパァ!」

 瞬間、上着の中に隠していたトイレットペーパーが、首元からとび出してきた。

「あっ! こらっ!」

 思わず声を上げてしまったぼくは、とっさに口を手で押さえながら、もう片方の手を伸ばして、床でじっとしているトイレットペーパーをつかんだ。

 辺りを、見回してみる――大丈夫、気がつかれてはいないみたい。

 気を取り直して、しのび足で部屋の前まで移動したぼくはドアノブにそっと手をかけた。

「こら! 健斗! ただいまはどうしたの?」

 まずい! お母さんだ。

 あと少しだったのに。ぼくは急いでトイレットペーパーをもつ手を背中に回して、お母さんのほうへと向いた。

「帰ってきたら、ただいまを言う約束でしょ?」

「う、うん……ごめんなさい。ちょっとトイレを我慢してて、急いでいたんだよ」

「トイレならこっちだけど?」

 お母さんは、そう言いながら奥に見えるトイレのドアを指差した。

「ああー、そ、そうだね。アハハ、焦って間違えちゃったみたい」

「ふーん。まあ、いいわ。次からはちゃんと、ただいまを言うのよ」

「う、うん」

「あと、手洗いとうがいもちゃんとするのよ」

「わかったよ」

 お母さんは、ぼくの返事を聞くと、首を傾げながらリビングのほうへと戻っていった。

「ふぅ……危なかった」

 急いでドアを開け、トイレットペーパーを机の引き出しの中へと隠してからトイレに入った。

 トイレを我慢していたのはウソなので、念のため水だけを流したぼくは部屋へと戻る。


 机の引き出しを開けると、そこには黄色いトイレットペーパーが目を閉じた状態でじっとしている。まるで眠っているようだ。

 指先で軽く突くように表面をふれたら、その紙はパッと目を開いて見せた。

 つぶらな瞳が相変わらず可愛い。

「こんな狭いところでまたせてしまって、ごめんね。今、出してあげるから」

「ペパッ!」

「しっ! 静かにして。お母さんにバレたら大変だから」

「ペパァ……」

 静かに鳴くトイレットペーパーを、そっと机の上に置いて、向き合うように椅子へと座る。

 トイレットペーパーは、じーっと様子をうかがうようにしてぼくのことを見つめてくる。まるでなにかの、小動物のようだ。

 いったい、なにを考えているのかな? 

 見た感じ、どうやら、おもちゃというわけじゃなさそう。

 生きているのは間違いないようだし……謎の生命体?

 それこそ、どこかに置いていくような真似は決してできない。かといって誰かに預けるっていうのも問題おきそうだよね?

 うーん……そうなるとやっぱり……。

「仕方がない……ぼくが、きみの面倒を見る」

「ペ?」

 トイレットペーパーは、その身体を少しくねらせるように動いて見せた。

 喜んでいるのかな? このマンションはペット禁止なんだけど、見た目がトイレットペーパーのこの子なら、バレることはないだろう。でも用心はしておいたほうがいいかもしれない。

 よし! 飼うと決めたのなら最初にやることは……。

「まずは名前を決めないとだよね。そうだなぁ……」

 たしか白川さんが預かっていた猫は目の色が青かったからアオだったよね? そうなると、目の前のこの子は黄色いからキイロとか?

「うーん。キイロ……キ……なんか違うなぁ……」

 トイレットペーパーかぁ……。

「トイレ? ダメダメ、それはダメだ」

 困ったなぁ……名前をつけるのって思いのほか難しい。

「きみは、なんて名前がいい?」

「ペパァ?」

 目の前にいるトイレットペーパーに聞いてみると、きょとんとした表情を見せたあと、一度だけ鳴いた。

「そういえば、きみはよくペパって鳴くよね? ペパ……ペパーとか?」

「ペパァ!」

「ん? ペパーがいいかい?」

「ペパァ! ペパァ!」

「ハハハ。そうか、じゃあペパーに決まりだ! ぼくは健斗だよ。よろしくね」

 そう声をかけるとペパーはピョンピョンとその場で、とび跳ねて見せる。

「アハハ、嬉しいのかい?」

「ペパァ!」

 コンコン。

 ぼくとペパーが喜んでいると、突然、部屋のドアを叩く音が聞こえてきた。

「健斗。お母さんだけど、少しいいかしら」

「え! あ、ちょっとまって!」

 ぼくは慌てて椅子の背もたれを机側へ向くように回転させると、身体でペパーを見えないようにした。

「い、いいよ!」

 ドアが開かれ、お母さんが顔をのぞかせる。

「さっき、おとなりさんからショートケーキいただいたんだけど、今から食べる?」

「ケーキ! うん、食べるよ」

「そう。なら、リビングにいらっしゃい」

「うん」

 ぼくは甘いものが大好きだからケーキと聞いて舞い上がった。

 でも……ペパーを置いていくのも少し心配だ。

 どうしよう……。

「少しくらいなら大丈夫かな?」

 ケーキの誘惑に負けて、ペパーを机の上に置いたままリビングへ向かうと、ちょうどお母さんが箱の中からケーキを取り出しているところだった。

「今、お皿にわけるわね。飲み物は、なにがいい?」

「アイスティーある?」

「あるわよ。ミルクいる?」

「うん」

 アイスティーの入ったグラスにミルクが注がれる。

 白いミルクが少しずつまじっていく様子が好きで眺めていると、お母さんがマドラーでかき混ぜてしまう。

 残念……楽しみは、一瞬にして終わってしまった。

 ぼくは、あきらめてテーブルの前に座る。

「はい、どうぞ。お母さんはやることあるから、あとでいただくわね」

 お母さんは、そう言いながら大きめのまっかな苺がのったショートケーキとアイスティーを置いてとなりの部屋へと入ってしまった。

 これは美味しそうだ! 大好物を前に興奮がおさまらないぼくは、フォークをにぎった手をグラスにあててしまう。

「あっ!」

 グラスが倒れ、ゴロゴロと机の上を転がってテーブルの下へと落ちそうになった、そのとき――突然、目の前に黄色い紙のようなものが、とび出してきた。

「⁉︎」

 その黄色い紙は新体操のリボンのように長く、目の前で優雅に舞うと、落ちそうになったグラスを受け止め、こぼれたアイスティーもすべて綺麗に吸い取ってしまう。

 ぼくが長く黄色い紙を目で追っていくと、そこにはペパーがいた。

「ペパー! どうして! ハッ!」

 大声でペパーの名前を叫んだ口を両手でふさぐ。

「ど、どうしたんだよ……なんでここに」

「ペパァ」

 どうやってかは、わからないけれど、部屋から出てきてしまったんだ……でも、ペパーのおかげでグラスも中身のアイスティーも、大変なことにならなくてよかった。

「ありがとうペパー」

 お礼を言うと、ペパーは、一声だけ鳴いて見せる。それはまるで、どういたしましてと言っているように聞こえた。

「そうだ! お母さんに見られる前にテーブルの周りを綺麗にしておかないと!」


「ふぅ……なんとかバレずに部屋へと戻ってこれた」

 ペパーが出した黄色い紙が、こぼれたアイスティーをすべて綺麗に吸い取ってくれたおかげで、片づけに苦労することはなかった。

「グラスも割らずに済んだし、ペパーがいてくれて良かったよ。危うくお母さんに叱られるところだったし」

 ペパーの姿を見られては困るから、ケーキは部屋にもってきちゃった……アイスティーはなくなってしまったけれど、ここでゆっくり食べることにしよう。

「それにしてもペパーはすごいね。あんなことができるなんておどろいたよ」

「ペパァ!」

 ペパーの力強い目つきが、どこか誇らしげに見える。

「アハハ!」

 ぼくはショートケーキをフォークで、一口ぶんすくうと、それを口の中に入れた。

 生クリームの甘さと、ほんのりとした苺のすっぱさがたまらない。

「うん! 美味しい!」

 ケーキを味わっているとペパーの視線が気になった。もしかして、食べたいのかな? って、トイレットペーパーがケーキを食べるなんて聞いたこともないけど……。

 ためしに、小さく切ったケーキをペパーの前に差し出すと、なんの反応も示さない。

「なんだよ、いらないの?」

 仕方がないので、そのまま食べ進め、楽しみにしていた大きな苺をフォークでさすと、突然ペパーが激しく鳴き始めた。

「え? なになに?」

 気にせず、苺を口元へ運ぼうとした途端、さらに激しく鳴く。

 これってまさか……。

「だ、ダメだよ! この苺はあげられない!」

 ショートケーキの大きな苺は、ぼくの楽しみだ。しかも一個しかのっていない……これをあげるわけには……。

 ペパーを見ると涙目で、こちらを見つめている。

「……」

 もーっ!

「仕方がないなー! ほら!」

 苺をペパーの前に差し出すと、まばたきするまもなく、フォークの先から消えてしまった。

「え! どうやって食べたの……?」

「ペパァ!」

 今までと違って少し高い声で鳴いている。どうやらペパーは苺が好物のようだ。ぼくの楽しみは取られてしまったけれど、喜んでいるようだし今回は我慢をしよう。

 そうしてぼくは、残りのケーキを綺麗にたいらげた。

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