第49話

 カランコロンと小気味よいベルの音が店内に響く。ガラスのショーケースには色とりどりのケーキの数々。レジ横にはバッターに置かれたドーナツ。


 これまで忍び込んだお店でもケーキやお菓子が置いてあったけど、みんなのお腹を満たせるものではないと思い手を出さなかった。スーパーでは果物やさつま芋、コンビニではパンやおにぎり、お弁当を盗んだっけ。どれも自分では満足に食べることは出来なかった。


 もしもケーキを盗んで来いと言われたらどうしていただろう。


 食べ物を見ると“食べたい”とか“美味しそう”の前に“どうやったら盗めるか”ということが真っ先に浮かぶ。

 ガラスのショーケースに守らているからまずは石をぶつけて割る? だけど、粉々になったガラスの破片がケーキに飛び散って食べられなくなってしまうだろう。その光景を想像して嫌な気持ちになった。それに、こんなに繊細で美しい食べ物、手に持った瞬間に崩れてしまいそうだ。


 ケーキを盗んでい来いと言われる前に里を追い出されて良かったのかもしれない。

 きっと自分には出来ない。もう、何も盗みたくなかった。


『いらっしゃいませ』


 頭上に降って来た声に慌てて顔をあげる。もしも今、自分が本来のたぬきの姿だったなら全身の毛が逆立っていたことだろう。代わりに小さな悲鳴をあげてしまったけれど。


 ガラスのショーケース越し、大柄の男の人と目が合った。里山で最も古いのクスノキみたいに背が高くて、岩みたいに険しい顔をしていた。


『……あ』


 白くて長い帽子を被った男の人は私の顔を見て小さく呟いた。


『脅かすつもりは……いや、すんません。その、ごゆっくり……』


 そういって、岩のような顔は皺の寄ったグミの実みたいに可哀そうなほどしぼんでいき、壁のような大きな背中を丸めて店の奥へと引っ込んでいく。私の怯えた表情のせいだろうとすぐに分かった。


『あ、あの! 違うんです!』


 慌ててその大きな背中に声を掛ける。店のガラス窓を指差す。ここからじゃチラシの裏側しか見えないけれど私が何を言わんとしているか男の人はすぐに理解してくれた。


『あ! アルバイト募集を見て来てくれたんですか!?』


 男の人はこちらに戻ってきて、ぱぁと花が咲くような笑顔を向けた。


『は……働いたことないんですけどいけますかね……?』

『レジ打ちは教えますし、基本暇なんで全然大丈夫ですよ!』

『暇……?』

『あ……オープンしたばかりで、作るのも販売も一人でやってて……その、この顔だからお客さんがなかなか』


 首の後ろを掻きながら困ったように笑うその顔に段々と緊張の糸が解けていく。


『あの、さっきごめんなさい。怖かったからとかではないんです』


 男の人が苦手なだけ。殴られた時の痛みを思い出してどうしても身がすくんでしまう。

 

『私で良ければ働かせてもらえませんか?』

『も、もちろん! あの、奥の事務室でお話聞いてもいいですか? ご住所とか連絡先を教えてください』


 その言葉に狼狽える。住所……なんてない。連絡先もない。今住んでいるのは路地裏。連絡する家族はいない。二度と会えない。


『ごめんなさい……やっぱりいいです』


 踵を返して店を出る。さっきよりも激しい音でベルが鳴る。涙が出そうだった。化けている時に涙はご法度。涙と一緒に力がどんどん流れていってしまうから。


『待って!』


 男の人が追いかけて来て私の腕を掴む。


『ッ!』

『あ、ごめんなさい! そんな強く掴んだつもりは――』


 私の手首から覗いた痣を見て、男の人は言葉を失う。盗みに入ったお店の店長さんに殴られた時、転んでぶつけた時の怪我がまだ治っていない。


『……ケーキ、何が一番好きですか?』


 長い長い沈黙の後、そう尋ねられた。


『うち、元々祖父の家を改装した店だから。2階の、すごい古い畳の部屋でも良ければ。住み込み三食おやつ付。どうですかね』


 俺はもちろん別に借りてる部屋あるから心配しないでと早口で言葉を続け、私の返事を待つ。


『……ケーキ、食べたことないんです』

『えっ!? 本当!?』


 こくりと頷くと、男の人はますます目を見開いて驚いていた。


『じゃあ……今は栗のロールケーキがおすすめなんですけど』

『栗……大好物です』

『あ、栗は食べたことあるんだ』


 良かったと、ほっとした笑顔に変わり私も目頭を拭って微笑み返した。


 その日、初めて人間の前で笑うことが出来た。




**********




「店で二人は出会って、そのうちお互い惹かれるようになった。百衣の母親は自分の正体を正直に伝えたけれどそれでも百衣の父親の気持ちは変わらなかった。二人は誰にも言わずに結婚して、母親は百衣を宿した」


 それまで淡々と話していた一吹くんの声色が一変する。


「百衣が生まれた後、他のたぬきが百衣を寄こせと言って来た。百衣も母親の力を受け継いでいる上、半分は人間だ。百衣の母親より自分達にとって利用価値があると思ったんだろうな」

「なんだよそれ……!」

「百衣は赤ん坊の頃から何度もたぬきに連れ去られそうになった。そのたびに百衣の父親と母親が守っていたけど埒が明かなくて、母親はたぬきを説得しようと一度山に戻ろうとしたんだ。そして、あの交通事故が起きた」


 まさかそんな事情があったなんて想像もしていなかった。百衣さんのお母さんの過去。そして、山での事故の背景を知り、俺は狼狽えた。


「……ただ、轢かれはしなかったけど百衣の母親も無傷だったわけじゃない」


 俺の様子を気にしながら、一吹くんはゆっくりと口を開く。

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