第54話
三日間休んだ分、仕事が溜まっているはずなのに俺にはやることが何もなかった。
特に言われたわけではないけれど漆山先生と瑞樹さん、他のスタッフさんたちが俺に気を遣ってくれたのだと思う。俺の分の仕事を分担して請け負い早く帰れるようにしてくれた。
それを分かっているのに、俺は大したお礼も挨拶も出来ず、病院を後にした。
朝と同じく、帰宅時も座れずつり革に捕まってぼうっと窓の外を見た。漆黒の鏡に映る自分の顔があまりにも情けなくてつり革を持つ腕に顔を埋めた。
最寄り駅を降り、自宅アパートまで真っすぐ歩く。食欲もないから24マートを素通りして、ただひたすら前後に足を動かす。
何も考えたくない。何も見たくない。
早く家に帰りたくてたまらない。
「千昭さん」
機械的に動かしていた足をぴたりと止める。
俺を呼び止める相手が誰なのか分かっている。
そして、何のために声を掛けたのかも。
俯いたままでも目の端に入っていた。あの小さな立て看板が通りに出ているのを。
「今日ね、プリン焼いたんです」
久しぶりに聞く百衣さんの声。
ああそうだ。甘やかし屋で初めて食べたのはプリンだったな。バニラとチョコの二種類。あまりにも美味しくて三口で食べ終わった。
あの夜、俺は今みたいに絶望的な気持ちでいて彼女のお菓子に救われた。
「要りません」
振り返りもせず俯いたままそう言った。
「もう俺にお菓子は必要ありません。俺なんかに……罪滅ぼしなんてしないで」
救われるべきは俺じゃない。
百衣さんのお菓子を食う資格なんて俺にはない。
何が雨宮さんに寄り添いたい、だよ。
お腹の赤ちゃんの一生を守りたいだよ。
結局肝心な時に傍にいないで、小さな命を救えもしなかったくせに。
いや、実際にもしも病院にいたとしても俺に何が出来るんだ?
知識も経験も乏しい、半人前の研修医が役に立てるとでも思ったのか?
「千昭さん……」
百衣さんが俺に近づいてくる気配がして、唇を強く噛んだ。
「もう俺のことは放っておいてくれよ!!」
静かな夜道に俺の大声が響く。どこかの家の窓が開く音がした。
俺は一度も百衣さんを振り返らず、走った。走って、走って、そのままアパートの階段を駆け上がり、ドアを開けて強く閉めた。そして、ズルズルと玄関に崩れ落ちる。
自分のおこがましさが腹立たしくて仕方がない。研修医としても人間としても未熟で非力で、無価値であまりにもちっぽけだ。
「俺じゃねぇだろ……」
救われるべきは俺なんかじゃない
冷たい玄関に座り込んだまま、夜が明けるのを待った。
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