第53話
何かの間違いであって欲しいと思うことをこれまで何度も経験してきた。
母さんの病気が発覚した時。
母さんが死んだ時。
昨日、一吹くんの話を聞いている時もそう思った。
頭と心をもがれるようなあの感覚は何度経験しても慣れることはない。自分がどうにかなってしまうんじゃないかという恐怖で全身が強張る。
今、まさにあの感覚が俺の全身を駆け巡る。
「深夜に破水して、緊急分娩を行ったんだ。恐らく絨毛膜下血腫が原因だと思う」
切迫早産で入院した時、雨宮さんは絨毛膜下血腫と診断された。血腫の発症メカニズムはまだ分かっていない。ただ、本来血腫は体内に吸収されてどんどんなくなっていくか、出血として少しずつ血が出て消えてなくなるのが一般的だ。
雨宮さん場合そのサイズが大きく、入院して安静に過ごし子宮収縮を抑える薬や抗菌剤を投与していた。
そうだ。安静に過ごしていた。
出来うる限りの治療もしていたじゃないか。
「あ……あと……も、もう少しだったのに……」
子どもの言い訳のようなことを吐く俺を漆山先生は咎めることをしなかった。「そうだね」と頷き、掌で目を覆った。
妊娠22週未満で生まれた赤ちゃんは救命しない。それは「母体保護法」という法律で定める「生育限界」に基づいている。22週未満の赤ちゃんを出産した場合、救命したとしても生きられないとして積極的な蘇生や治療は行われない。
雨宮さんは21週に入ったばかりだった。
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漆山先生と一緒に執務室を出る。そのまま朝礼と午前中の診察を行い、昼を過ぎた頃に漆山先生は仮眠室へと向かった。
「大丈夫?」
夜勤の瑞樹さんが出勤してすぐに俺に声を掛けてくれた。病院の窓から夕陽が差し込んでいる。いつの間にか夕方になっていた。
大丈夫、と返せなくて俺は黙ったまま頷く。
「榛名先生は初めてだよね……」
自由選択で産婦人科に配属になってから半年近く経っていた。これまで胎児に障害が発覚したお産や妊娠中のトラブルを抱えた妊婦さんを目の当たりにしてきた。
だが、赤ちゃんが亡くなってしまう経験は初めてだった。
「きっとまだお昼の時間とれてないんでしょ? 漆山先生も仮眠中だし、榛名先生も休憩してください」
食欲などない。休憩も必要ない。
そう答える気力もなくて俺は素直にナースステーションを出て休憩室へと向かった。そして、真っ白い廊下を見つめながら歩き、足を止める。方向を変えて、小走りになる。俺は雨宮さんの病室へと向かった。
「失礼します……」
小さな声で声を掛けたがいつものような反応はなかった。
入ろうか一瞬迷ったが、一歩踏み入れて静かにドアを閉める。雨宮さんの部屋は個室で、ドアとベッドの前に仕切りのカーテンが引いてある。そっと、目の前のカーテンに手を掛けて中を覗く。
雨宮さんは眠っていた。俺は出直そうとカーテンを降ろす。
「……榛名先生」
その瞬間、雨宮さんの声がした。
「私また……お母さんになり損ねちゃった」
俺は短く息を吐いた。自分の鼻息が粗くなっていくのを感じて焦る。
「ちかっ……力に……なれなくてごめんなさい……」
絞り出すようにそういうと、雨宮さんは「ううん」と言った。
「私の身体が駄目なんです……折角ここまで来れたのにごめんなさい」
どうして謝るんだ。
雨宮さんは何も悪いことしていない。
ずっと病院で安静にしていた。治療も続けていた。雨宮さんの赤ちゃんだって頑張っていたはずだ。
そう言葉で伝えたいのに喉が閉じて何も言えない。目の前の薄いカーテンをもう一度開けて、雨宮さんの顔を見る勇気すら俺にはない。
「赤ちゃん、か……可愛かった」
震える声が俺の耳に大きく響く。
「す……すごく……すごくすごく小さかったけど、ちゃ、ちゃんと爪も瞼もあって……眠ってるみたいだった。少し抱っこもさせてもらったんですけど……あ……あったか……かっ……たなぁ」
俺は手の甲で口を押さえて、片方の手は膝を支える。崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。
「ごめんなさい……ひっ、ひとりにしてくださ……ッ」
ドアを締めた後、雨宮さんの嗚咽がドアを貫通して鼓膜に響く。俺は逃げるようにその場を離れた。
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