第52話

 三日ぶりの満員電車に揺られながら窓に映る自分の顔を見ていた。


 昨日、地元から戻る時に新幹線の中で見た田んぼ、人家やビルの連なり、コンビナートの夕焼けは一切ない。俺を乗せた電車は暗いトンネルをひたすら通過していく。

 地下鉄だから外の景色なんて望めないのは当たり前だけど、どこまでも何も代り映えしない、漆黒の窓に反射した自分の顔を見つめ続け、これからのことを考えていた。


 百衣さんの過去。

 俺の父さんの事故との関係。

 昨夜、全てを知った俺はこれからどうするべきか一晩中悩んだ。悩んで、悩んで出した答えは百衣さんはもう俺にお菓子を作らない方がいいんじゃないかということだった。


 百衣さんはずっと俺に対して不要な罪悪感を抱いている。百衣さんは自分が生まれたせいで俺の父さんと自分の母親を亡くしてしまったと思っている。その罪滅ぼしのために洋菓子屋リリーを再開させて、死にそうになっていた俺のことをお菓子で元気づけようとしてくれていた。


 つまり、俺にお菓子を作り続ける限り百衣さんは自責の念の苛まれ続けてしまう。

 そんなこと俺は望んでいない。


 だって、俺はもう大丈夫だからだ。両親の死や勉強、仕事よ大変なことばかりだったけど、今ではすっかり元気になった。百衣さんのお菓子のおかげだ。一吹くんが言っていた百衣さんのおまじないは俺の身体と心を丈夫にしてくれた。


 最近は激務にも慣れたし、医者としての自信もほんの少しだけどついてきた。産婦人科での研修だって、どうやって患者さんやその家族に寄り添った医療を提供できるか、先を見据えて行動できるようになってきた。


 だから、もう俺にはお菓子は必要ない。

 罪滅ぼしなんていらない。

 そのことを彼女に早く伝えたい。


(今夜、早く上がれたら裏山へ行ってみよう)


 漆黒の鏡に映る自分の顔に向かって俺は微笑み、小さく頷いた。



***************



 病院のロッカーでスクラブに着替えると、土産のみたらし団子の箱ともう一つ、小さな袋を取り出した。


(朝の回診前に渡そう)


 一吹くんから預かった雨宮さんへのフロランタン。切迫流産の雨宮さんはまだ入院中だ。三週間にわたって長期で入院することになってしまったけど、次の診察で問題なければ退院できるはずだ。


「おはようございます! 長い間、お休みいただきありがとうございました! これみなさんで召し上がってください!」


 ナースステーションに入り挨拶をすると、看護師さんや助産師さん達が一斉に俺の顔を見た。

 そして、みんな微妙な顔をして蜘蛛の子を散らすみたいに俺から遠巻きに離れていく。


(あ、あれ……?)


 俺は事態が飲み込めないまま、ひとまずお菓子を休憩スペースのテーブルに置いた。なんとなく視線を感じて振り返ると、みんなが俺のことを見ていて、俺と目が合うや気まずそうに視線を反らす。


「榛名くん」


 その時、漆山先生に声を掛けられた。俺は「はい!」と元気よく挨拶する。


「ちょっと、いい?」


 漆山先生の表情はとても硬かった。スケジュール的には今日は当直明けだが、それ以上にとても疲れているように見えた。この科に配属になってから漆山先生がここまで疲労している姿を見るのは初めてだった。


 先生の後ろをついて歩きながら帰省中の叔父さんの言葉が浮かんだ。


 ――研修医がそんなに休んで大丈夫なのか? 戻ったら君の席はもうないよって肩叩かれたりしねぇのか?


 もしかして俺、またなんかやらかした?

 大事な勉強会忘れてた?

 レポートの出来がダメ過ぎだ?


 たった三日の間で可能性のあるやらかしを想像して汗をかく。


 漆山先生は執務室に入ると椅子に深く座った。そして、ふーっと長い息を吐いた。その動作ひとつひとつに俺は心臓がきゅっと縮こまる。


「ごめんね、休み明けに。榛名くんがいない間に色々あってね。そうだな……何から話そうか」


 先生は言いにくそうに自分の額を掻いた。そのまま長い沈黙が続いた。


「あ、あの……俺……クビですか……?」


 耐えきれなくて自分から口を開いた。

 漆山先生は一瞬目を丸くしてすぐに首を振った。否定されて少しほっとしたけど、先生の表情は硬いままだった。


 そして、意を決したように顔を上げて、俺の目を真っすぐ見据えて言った。


「昨日、雨宮さんの赤ちゃんが亡くなったんだ」

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