第44話

『close』と書かれたプレートがつり下がったドアを開けると、カランコロンと喫茶店ならではの小気味の良いベル音が店内に響いた。


「はえーよ」

「叔父さんがおせーんだって」


 俺は手に持っていた花束と紙袋をカウンターに置いて厨房を覗き込む。叔父さんは汗をかいて悪戦苦闘していた。


「まだダメそう?」

「ダメ。うんともすんともブーンとも言わない。冷蔵庫がこのままじゃ明日店開けらんねぇからもうちょい待って。今、業者呼んでるから」


 カウンター下に備え付けられた業務用冷蔵庫の電源をつけたり消したりしながら叔父さんは首を捻る。喪服の上着を脱いで汗を拭っていた。


「法事までに間に合う? 参列者俺達二人しかいないのに二人とも遅刻したらかなり気まずいよ」

「ダメだったら俺に構わず先に行け」


「構うよ!」といいながら俺はカウンター席に座った。叔父さんは、はぁと深いため息をついてお湯を沸かして始めた。コーヒーを淹れてくれるようだ。


「それにしても、お前休みとれて良かったな。しかも三日間も。研修医がそんなに休んで大丈夫なのか? 戻ったら君の席はもうないよって肩叩かれたりしねぇのか?」

「そんなブラックじゃねぇよ……」


 俺はちょっと嘘をついた。勤務形態でいえば医者の勤務形態は基本ブラックといえばブラックだ。仕事柄そうならざるを得ない仕事だ。俺はこの休みをもぎとるために仕事も勉強会もかなり頑張った。


「前もってこの辺りは親の法事で数日休みが欲しいって伝えてたから大丈夫だよ」


 叔父さんが淹れたてのコーヒーを俺の前に置く。繊細な作りの白磁のティーカップ。ご丁寧にソーサ―に乗せて出してくれた。身内だからいいのにと思ったが、これは叔父さんの職業病ってやつだろう。


 普段、自分で淹れるインスタントコーヒーとは別格の芳醇な香りが鼻をくすぐる。俺はカップの取っ手に指を掛けて一口飲んだ。はぁ、やっぱりうまい。プロの味。時間を気にして焦っていることなんてどうでもいいような錯覚を起こしそうになる。


 今年は母さんの七回忌に当たる。その法要で俺は地元に帰省するために数日休みを取った。本当は日帰りのつもりだったけれど漆山先生が気を遣ってくれてもう少し休みをとったらと勧めてくれた。漆山先生は俺の両親がすでに他界していることを知っている。俺としても今回の帰省で叔父さんに色々と聞きたいことがあったから、お言葉に甘えることにした。


「叔父さんってさ、なんで喫茶店やろうと思ったの?」

「なんだよ突然」

「業者来るまでの暇つぶしだよ」


 可愛くねぇと言いながらも、自分で淹れたコーヒーを飲みながら「なんだったっけなぁ」と思いを巡らせる。その内、ワイシャツの胸ポケットにしまっていた煙草の箱を取り出して吸い始めた。


「分煙じゃなくていいの?」

「定休日だし」


 俺自身は吸わないけれど、叔父さんの喫茶店に漂う煙草の匂いが不思議と嫌いではなかった。


「始めたきっかけはこの店の前のマスターに声を掛けられたからだな。前職の保険の営業でよくこの店を使ってたんだ。丁度、この仕事向いてないなぁと思っていた頃だったから転職したって感じだな」

「そうなの!? コーヒーが好きだからとかじゃねぇの!?」

「なりゆきってやつだな」


 なんだよと俺はあからさまに肩を落とした。そんな俺の顔を見て叔父さんもまた気落ちした顔をする。


「聞いておいて勝手にがっかりすんなよ」

「いやだって何十年も続けてるから元々この仕事がしたくてやってたんだとばかり思ってたよ。正月や今日みたいな用事がある日以外は基本年中無休だろ?」

「まぁ待てよ。続けてる理由ならちゃんとある」


 叔父さんはふと俺から目線を外した。俺はその目線の先を追う。


「お前の母さんのためだ」


 カウンターの一番奥の席を見つめてそう言った。


「お前がまだ小さかった頃、母さんは毎晩お前をおんぶして店に来てたんだよ」

「え、そうなの……? 俺全然覚えてないんだけど」

「まだ保育園に通っていた頃だったし、小学校に上がるころには夜中に店に来ることはなくなったから覚えてないだけだよ」

「なんでまた夜中に?」

「今だから言えるけどな、お前の母さん、寝るのが怖かったんだ」

「は? なんで……?」

「明日が来るから」


 思いもしない答えに俺は目を丸くした。


「寝たら明日になる。朝が来るのが怖いって泣いていた。達郎さん、お前の父さんが亡くなってすぐの頃だったから色々不安で一杯だったんだ。無理もないよな。ある日突然、目の前で夫を亡くしてひとりで息子を育てなくちゃいけなくなったんだから。悲しむ余裕もなく仕事して子育てもしてって目まぐるしい毎日に押しつぶされそうだったんだよ」


 叔父さんの言葉を聞きながら俺は母さんが座っていたという席を見つめ続ける。俺の席から三席分離れた、一番端っこの席に若かりし頃の母さんの姿が浮かんできた。


「眠っているお前をボックスのソファ席に置いて、カウンターの端に座ってコーヒーを飲んでた。俺も店で出すお菓子を作るようになって試作品をお前の母さんに食ってもらったりしてた。砂糖入れすぎって泣きながら笑っていた夜もあったなぁ」


 真夜中にコーヒーを飲み、涙を流しながらお菓子を食べる母さんに自分が重なる。明日が来ることに怯えながら過ごす夜がどんなに心細いか、俺には痛いほど分かる。


「自分の性に合ってたのもあるけど、お前の母さんのために店を続けたかったんだ。甘えられる場所でありたかった。お前の母さんは頑張り屋だった分、弱音を吐くのが下手だったから。甘えられる相手は弟の俺しかいなかったからさ」


 「だから」と叔父さんは俺の目を見て言葉を続ける。


「お前は母さんに似てるからちょっと心配してる」


 俺を見る叔父さんの目は母さんによく似ていた。


「頑張り屋だからこそ医学部入ってちゃんと医者にもなった。だけど、弱音を吐ける相手はいんのかなって心配になる。ほら、研修医になって地元を離れたからちょくちょく顔も見られないから」

「叔父さん……」

「彼女とか100パーいなさそうだし」

「な、なんだよそれ!」


 急に軽口でごまかされたけどそれも叔父さんの優しさだって知ってる。


「……彼女とかはいないけど、甘えられる相手はいるよ」


 甘やかし屋のことを思い出していた。百衣さんと一吹くんが作ったお菓子の数々に俺は幾夜も救われてきた。


「な、なにその顔」


 視線に気づいて顔を上げると叔父さんが俺のことをじとりと睨んでいた。


「……身体だけの関係とか、男としてだらしねぇことだけは絶対にやめろよ?」

「はぁ!? そういうんじゃねぇって! てか全然業者来ねぇじゃん! コーヒー飲んでる場合かよ! 煙草吸ってねぇで電話しろよ!」


 俺は顔を真っ赤にして叔父さんを促した。


 電話の後、業者の若い兄ちゃんは予定より10分遅れて店にやって来たが「もう寿命っすね。買い替えた方が早いっすよ」と言って、見積もりとカタログだけ置いてとっとと去って行った。結局法事にも遅れ、俺達は住職に長めの説法を説かれることとなった。

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