第42話

「失礼しまーす……」

「榛名先生!」


 病室のカーテンを開けて中を覗き込む。目が合った瞬間、雨宮さんの明るい声が聞けてほっとした。顔色も良さそうだ。雨宮さんはベッドのリクライニングを上げて読書中だった。


「雨宮さん、大変でしたね」

「ご迷惑おかけしてすみません。甘やかし屋さんにもお礼を言いたかったのですが、私が目を覚ました時にはもうお帰りになられたみたいで……」


 道端で倒れた日から雨宮さんは入院している。

 切迫流産の危険があり、母体を検査した所、絨毛膜下血腫といって赤ちゃんを包む膜である胎嚢たいのうの周りに血液がたまり血腫になった状態だった。

 切迫流産とは妊娠22週未満で出血や下腹部の痛みがあり、流産のリスクがある状態のことをいう。雨宮さんの場合、現在19週だ。


 切迫流産と診断されても絶対安静に出来るのであれば入院はせずに自宅で過ごすことも可能だが、雨宮さんは過去に二度も流産を経験していること、胎児に問題を抱えた状態ということもあり状態が落ち着くまでは入院してもらうこととなった。


「……明日、ですよね。羊水検査の結果が分かるの」


 病室に備え付けられたカレンダーを見ながら、雨宮さんが尋ねる。俺は無言のまま頷いた。


「明日は旦那さんも病院へいらっしゃると聞きました」


 雨宮さんは気まずそうに笑った。俺の口から出た“旦那さん”という言葉に反応したのだろう。


「昨日はごめんなさい。病院で夫婦喧嘩だなんて。本当ご迷惑かけっぱなしで……早く退院しなきゃですね」


 雨宮さんの旦那さんは入院してから毎日お見舞いに訪れた。急遽入院することになったから着替えを持ってきたり雨宮さんの仕事先からの連絡を彼女に共有したりしていた。そして、入院中である雨宮さんの祖母の容態も伝えるために。


 雨宮さんの祖母の容態が思わしくないという。認知症の症状が悪化していると旦那さんに聞いた雨宮さんはひどく取り乱し、旦那さんと言い争う声が病棟の廊下まで響いていた。俺と瑞樹さんが急いで病室へ向かう途中、「何があっても私は産みたい!」と悲痛な叫び声が聞こえた。


「お仕事も忙しかったんだし、ちゃんと休みましょう」


 俺は笑顔で話しかける。


「そうだ! 雨宮さんの雑誌読みました。コラムに俺のことちょっと書いてあって嬉しかったっす」

「ありがとうございます。今更ですけど、甘やかし屋さんのこと勝手に書いちゃって大丈夫だったかな。思い出の味に本当によく似ていて思わず書いてしまったけどお店の迷惑になってないか心配で……この間、甘やかし屋さんに助けていただいた時に話せたら良かったんですけど」

「ま、まあ、大丈夫だと思いますよ!」


 そういうと雨宮さんは少し安心したような顔をした。俺は軽く咳払いをして、告白するような心持ちで言葉を続ける。


「偶然は、もうひとつあるんです」

「え?」

「あのコラムの写真に映っている親子連れ、俺と母なんです」

「ええっ!? う、うそ!」


 そりゃ驚くよな。洋菓子屋リリーのことは記憶にないが確かにこの写真は俺と母さんだと話した。


「俺の母はもう亡くなってて、どうして地元でもないこの店に行っていたのか理由は分からないんですけどね」

「このお店のお菓子のファンだったとか?」

「ああ……そっか。そうかもしれないですね」


 雨宮さんの言葉が素直に腑に落ちた。母さんも甘いものは好きだったな。だから俺も百衣さんが作るお菓子にこんなに惹かれるんだろうか。


「私の祖母もあのお店のお菓子が好きだったんです」


 懐かしむ目をしながらそう呟いた。きっと祖母の顔を思い浮かべているんだろう。雨宮さんが子どもを望む理由、旦那さんが拒む理由。


 俺はベッドの上のふくらみに目をやる。雨宮さんのお腹の辺り。19週の腹部は若干膨らみはあるもののここまではっきりではない。だから目に映るそのその膨らみはほとんど布団の厚みだ。けれど、そこには確かに命が育まれている。少しずつ少しずつゆっくりと時間を掛けて膨らむ命。そして、その命は明日の羊水検査の結果次第で未来が決まる。


「……俺、早くに父親を亡くしていて、母もずっと病気だったんです」


 突然切り出した言葉に驚く様子も見せず、雨宮さんは静かに黙って俺の話に耳を傾けてくれた。


「俺が高校生の時には母はずっと入院してたんで、学校行って家事やって病院にも見舞いに行って医学部の受験もあって。そんな生活だったから、周りから“大変だね”、“若いのに苦労してるね”って心配されるんです。だけど、俺的には全然そんなつもりなくて」


 誰かにこんな話をするのは生まれて初めてだった。だけど、雨宮さんに言いたいと思った。


「なんというか、母が生きていてくれることだけで全部頑張れたんです。しんどかったけど、生きていることだけで希望みたいな存在だったから。だからその」


 当時を思い出して胸が一杯になっちまって「だからその」の続きが出てこない。ここまで来て怖気づくな馬鹿野郎。


「分かります」


 ふがいない俺の言葉を雨宮さんは紡いでくれた。

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