第41話

 開けっ放しにしたままの窓から夜風が部屋へと入る。


 俺は真っ暗な部屋の中で風になびく白いカーテンを見続けていた。配属先の病院が決まってこの部屋に引っ越して来た時にネットで買った安物のカーテン。生地が薄くて遮像も遮光も望めない、付けても付けなくてもさほど変わらない代物だ。それでも無いよりマシだし買い換えるのも勿体ないからこのままにしていた。


 外から部屋の中は丸見えで、夜になっても電気もつけずただ窓辺に座り込んでぼーっとしている俺の姿を、向かいのマンションの住民が見ていたらさぞ気味が悪いだろう。もしかしたら百衣さんがこの窓から落ちていく瞬間も誰かに見られたかもしれない。


 俺は手を伸ばして窓を閉める。ついでにカーテンも閉めた。どこか投げやりで八つ当たりのような力で布をひいたからレール部分が一部外れてしまった。上部分がだらんとだらしなくしなっている。自分が悪いのに今の俺には直す気力もない。立ち上がって、そのままソファにどかっと腰を下ろした。


 テーブルに置きっぱなしになっていたケーキの箱が目に入った。俺は二、三回ゆっくり瞬きをして、ソファの背もたれから身体を離して箱を手に取る。


「あんなに綺麗だったのに……悪いことしちまった」


 白鳥のシュークリームは無残な姿になっていた。何時間も常温で置きっぱなしだったから、クリームはゆるくなり美しい羽としなやかな首が落ちてしまった。俺はお菓子を作ったことなんてないけれど、これを作るのにとても手間がかることぐらいは想像できる。


「ごめん」


 崩れ落ちた白鳥のシュークリームを見ながら、百衣さんに謝る。


「あんなこと聞いてごめんなさい」


 こうなることを想像していたくせに、彼女を傷つけるかもしれないと分かっていたくせに、結局泣かせてしまった。今更、父さんの死因が明らかになっても何にもならないのに俺は一体何がしたかったんだ。犯人捜し? 正体を暴きたい? それで彼女はどうなった?


 自分への怒りで箱を持つ手に力が籠る。


『私なんて……生まれてこなけれ良かった……!』


 ぽろぽろと涙を流す百衣さんの顔に呆気にとられていると、彼女はトートバッグを掴んで立ち上がり、俺の部屋の窓を開けた。そして飛び降りた。


『えっ!? ちょっ!! うわっ!』


 ここは二階だ。しかも、坂の上に立つアパート。こんな所から飛び降りて無事で済むわけない。俺も慌てて立ち上がって追いかけようとしたが突然のことで足を取られテーブルの角にぶつかりその場でこける。這うように窓の下を覗くとそこにはもう百衣さんの姿はなかった。周辺を見渡しても彼女の姿は見当たらない。


『ちょ、ちょっと待ってよ!!』


 今度は急いで玄関に向かう。置きっぱなしになった彼女の靴を掴んで追いかけようとした。

 だけど、出来なかった。さっきここで確かに脱いだ筈の百衣さんの靴は無かった。


 俺は混乱した頭でもう一度窓辺に戻り身を乗り出して彼女の姿を探す。雨が降りしきり中、遠くの方で何か黒い固まりが動いているのが見えた。俺は目を凝らしてその黒い固まりを見つめる。そして、その場に崩れ落ちた。


 黒い固まりはたぬきだった。裏山の方向へ向かって走っていった。トートバッグまでは見えなかった。



**************



 俺は箱の中から崩れた白鳥のシュークリームを取り出した。生地が水分を吸って軽く持っただけでぐにゅりと潰れる。俺は力を加減しながら片方の掌にそっと置く。落下した羽と首のシュー生地も拾い、クリーム部分に添える。元の綺麗な形とは程遠いけれどなんとかくっついてくれた。


「いただきます」


 何の謝罪にもならないことぐらい分かってる。

 それでも、ここにはいない百衣さんに伝わるように祈りを込めて“いただきます”と言いたかった。

 加減を間違えば崩れ落ちそうなシュークリームを慎重に口に運ぶ。一口で一気に。


「……うま」


 優しい甘さが口一杯に広がり自然と口が緩む。やっぱり百衣さんの作るお菓子は変わらず美味しかった。こぼさないように一口で食べてしまったことが悔やまれる。せめて口の中にあるものを大切にしたくてゆっくり咀嚼して味わう。


 テーブルに置かれたままの雑誌を見る。ショーケースの前に立つ親子連れの写真。俺と母さん。そして、ショーケースには、プリンにロールケーキ、白玉フルーツポンチに白鳥のシュークリームも映っている。


 俺は箱の中をもう一度覗き込む。白鳥のシュークリームは二個入っていた。もうひとつの方も形が崩れてしまっていたけれど、俺はさっきと同じようにそっと手に持つ。今度は掌じゃなくてお皿に映した。そして慎重に羽と首をくっつける。俺は皿を持って立ち上がり、カラーボックスの一番上、母さんの位牌の前に置いた。


「久しぶりに食う? それとこのお菓子は初めてかな……」


 母さんが生きていた頃、病気が発覚する前の元気だった頃、こんな風に一緒にケーキを食べる日はあったのかな。もう随分と昔のことに思えて、何も思い出せなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る