第39話
病院を出ると重たい雲が空一面を覆っていた。午前中はあんなに晴れていたのが嘘みたいだった。
「ひと雨きそうですね」
百衣さんは空を見上げた。
「分かるの?」
「なんとなくですけど」
それは動物的感?と聞きたい気持ちを堪える。
「百衣さんの家の最寄り駅って俺と同じでいいのかな? 裏山の方だよね」
百衣さんは困ったような顔をして俺を見上げた。
「本当にお礼なんていいですよ」
「いやでも、雨が降りそうなら尚更だよ。俺んち、予備用の傘沢山あるし。ビニール傘だけど」
「……」
無言になってしまった彼女の態度に俺は一気に臆病になった。
「……ごめん。俺、変なこと言いましたね。やっぱ、さっきのは忘れてください」
口調まで敬語に戻して引き下がる。
病院を出る前、俺は百衣さんに家に来ないかと誘った。もちろん変な意味はなくて(マジでマジでマジだ)、電話をくれたお礼にお茶でもどうかなと誘ったのが理由だった。
だけど、完全に失敗だった。完全に、百衣さんは俺を警戒している。そりゃそうだ。いくら店の常連だからって男に突然、家に来ないかなんて誘られたら怖いに決まっている。気持ち悪くて警戒されて当然だ。
「駅までの道って分かりますか?」
「い、いえ……この街初めて来たので分かりません」
「じゃあ……百衣さんが嫌じゃなかったら駅までは送りたいんだけど、どうすかね?」
ひとつひとつにお伺いを立てるみたいな言い方が自分でも歯がゆい。だけど、これ以上彼女に恐怖心を抱かせるのは避けたい。百衣さんは頷き、俺達は同じ電車に乗った。
百衣さんの予想通り、電車に揺られている途中で雨が降り始めた。自宅アパートの最寄り駅に着くころには勢いを増していた。
「これ」
俺はバックパックから折り畳み傘を取り出して百衣さんに渡す。きょとんと目を丸くして俺の紺色の傘を見つめた。
「俺の家はすぐだから百衣さん使ってください」
「で、でも……千昭さんが濡れてしまいます」
「俺はこれがあるし。走れば家まですぐだから大丈夫っす」
俺はパーカーのフードを被り、紐をきゅっと伸ばしてフード部分を絞る。
「それじゃあ、また」
走り出そうと一歩踏み出すとパシャッと水たまりが跳ねた。
「千昭さん!」
初めて聞いた、百衣さんの大きな声。俺が振り返ると、今にも泣き出しそうな顔をしていて心臓がドクンッと跳ねる。
「え、え。どうしたの……?」
俺は慌てて百衣さんに駆け寄る。
「これ……どうやって使っていいかわかりません……」
「折り畳み傘、使ったことない?」
俺は百衣さんの顔と折り畳み傘を交互に見る。
「傘……普段使わないから」
気まずそうに百衣さんは俯く。
「……じゃあ、嫌じゃなかったらやっぱ一緒に帰ります……?」
「嫌とかじゃないんです」
「えっ?」
「家にも行くのも嫌とかじゃないんです」
百衣さんのブラウンがかった瞳がまっすぐに俺を見つめる。何かを覚悟しているかのような、俺が考えていることを察しているかのような瞳だった。
俺は百衣さんかた折り畳み傘の受け取り、留め具を外した。パラパラと軽く横に振ってハンドル部分のボタンを押すとボンッと勢いよく傘が開いた。その音に百衣さんはびっくりして目を丸くした。もしも彼女にしっぽが生えていたら、ぶわわっと膨らむ姿を想像した。
百衣さんの頭上に傘を傾けると、恐る恐るといった様子で中に入った。
「お邪魔します……」
「ぶはっ。家じゃないんだから」
思わず吹き出すと、ずっと不安そうな顔をしている百衣さんの顔が少し綻んだ気がした。
中央出口を出て、ひとつの傘に入って二人で歩き始める。折り畳み傘だから広さが足らず、俺の身体の半分は雨に濡れて冷たい。だけど、百衣さん側の半身はじわじわと熱が広がっていくような感覚がした。何かの拍子で身体にぶつかったりしないように細心の注意を払いながら、それでも彼女がすぐ傍にいるという状況にどうしようもなく俺の胸は高鳴っていた。
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