第35話

「はぁ、はぁ……公園の方にはいませんでした……スーパーも覗いてみたけどいなかったです」

「駅も駄目でした……何度か電話もしてみましたが繋がりません」


 30分後、マンションのエントランスに戻ると丁度雨宮さんの旦那さんも戻って来た。息を切らし眼鏡を外し、ズボンのポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭っている。普段からちゃんと準備してる人なのかと妙に感心した。俺はハンカチなんて小学校以来持ち歩いた記憶はない。Tシャツの袖で乱暴に汗を拭った。


「もう家に戻ってるとか、ないすかね?」


 俺はマンションを見上げる。


「そうですね……ちょっと部屋に戻ってみます」


 雨宮さんの旦那さんは自動ドアに向かう。


「あの、良かったらやっぱり上がって行きませんか。君も汗すごいし……お茶でも飲んでください」



*****************



「どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 グラスに注がれたお茶が俺の目の前に置かれる。ご丁寧に氷まで入っていて、お店みたいにコースターまで敷いてある。俺はなんだか恐縮しきりだった。


 雨宮さんの家はブラウンで統一された、すっきりと整然とした家だった。リビングには大きなソファに一人掛けの椅子、首の長いランプは部屋を明るくするためのものというよりオブジェのような存在感があった。インテリア雑誌やマンションのモデルルームで見るような格好いい部屋だ。


 その部屋に雨宮さんはまだ戻っていなかった。


「あの……喧嘩でもしたんすか?」


 俺はお茶を一口飲み、意を決して旦那さんに尋ねた。


「……喧嘩、という程のことではありません。少し言い争いになっただけです」


 世の中ではそれを夫婦喧嘩っていうんじゃないのかと思ったけれど、独身の俺に言われたくもねぇだろうから黙った。


「どこ行ったか心当たりとかは……?」

「……病院かもしれません」


 旦那さんは少し言いにくそうな、困った顔をしていた。


「え? うち土曜日は診察日じゃないですけど」

「あ、いや。彼女のじゃなくて、彼女の祖母の病院です」


 俺は雨宮さんの雑誌のコラムのことが頭に浮かんだ。


「あ……ずっと一緒に暮らしていたっていう?」

「どうして知っているんですか?」


 俺は鏡のようにピカピカのフローリンに置いたバックパックを手に取る。中から雑誌を取り出して、旦那さんに広げて見せた。旦那さんは少し前のめりの姿勢で雑誌を黙読し、脱力したようにすとんと座った。


「こんなこと書いていたのか……」


 酷く落胆した声だった。


「あ、雨宮さんっておばあちゃん子なんすね」


 俺はなんだか不在の彼女をフォローしたいような気持ちになった。このコラムの一文から雨宮さんが祖母を大切にしていることがよく伝わって来たし、今もお見舞いに行っているのであれば何も悪いことじゃない。

 それなのに、目の前の彼女の夫はそれを快く思っていないのが明白だった。


「先生、理子のお腹の赤ちゃんには障害があるのでしょうか」


 唐突な質問に俺は動揺した。


「ま……まだ検査中です。何も分かっていません」

「主治医から検査を勧められるぐらいなのだからその可能性は高いんですよね?」

「俺からは何も申し上げられません」

「そういうのいいんです。はっきり言ってください」

「なっ……そうであって欲しいんすか?」

「そうです」

「はぁ……?」


 なんなんだよ、この男。

 夫のくせに、父親のくせに。出産にも妊娠にも他人事。自分には全く関係のないって顔と言葉。


 俺の顔はあからさまに嫌悪感に満ちていた。取り繕うことなんて出来なかった。それぐらい、雨宮さんの旦那さんの返事が許せなかったのだ。


「雨宮さんに堕胎手術を勧めているのはやっぱり旦那さんなんすか……?」

「……そうです」


 少し間を置いて、まっすぐ俺の目を見てそう答えた。


「そうですって……なんで……なんでそんなひどいこと」

「そうでなければ理子はいつまでも解放されないからです」


 そして、切実な声で言葉を続けた。


「先生、人は何のために子どもを産むのでしょうか?」


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