第34話

 男は振り返り、俺の顔を怪訝な表情で見た。


「何か?」

「あっ……その」


 俺はしどろもどろになる。だけど、ここまで来たらもう引き返せない。


「あの……もしかして雨宮理子さんの旦那様、ですか?」


 男の眉にますます深い皺が寄せられる。


「そうですけど……あなたは誰ですか?」

「俺は……あの、恵愛病院の産婦人科医です」


 そういうと、一瞬雨宮さんの旦那さんが息を飲むような仕草をした。


「理子の主治医の方ですか?」

「あ! いや、主治医の先生に付いている研修医です」

「……研修医の先生がどうしてうちに?」

「た、たまたま家が近所なんです。通りかかっただけで……」


 雨宮さんの旦那さんは「はぁ」と言いながら俺から距離をとったまま疑り深い目でこちらを見続ける。


「あの……雨宮さんどうかされたんですか?」

「別に君には関係ないだろ。なんなんだよ、さっきから」

「か、関係ないとも言えないです。その……雨宮さん、家に帰りたくないって仰っていました。この間もずっと病院の周りで時間を潰されていたんです。それで俺がご自宅まで送ったことがあったぐらいだし……」

「……ッ」


 雨宮さんの旦那さんは言葉に詰まり、すぐに皮肉気な笑みを俺に見せた。


「……ご迷惑をお掛けしました。それで? 彼女が僕に暴力でも振るわれていると思われてわざわざ家にまで来たってことですか?」

「は、はぁ? 俺、別にそんなつもりは……!」

「だったら何? 彼女の中絶を阻止しようと説得にでも?」


 あまりの言い草に俺を目を見開く。


「いくら彼女のかかりつけの病院の医者だからって人の家庭に首を突っ込み過ぎじゃないですか?」

「こ……こんな道端でするような話じゃないでしょう……!」


 拳をぎゅっと強く握る。怒りで手が震えた。そんな大切な話を立ち話で持ち掛ける雨宮さんの旦那さんのデリカシーのなさが信じられなかった。


「だったら上がってください」

「え……?」


 雨宮さんの旦那さんはくいと顎を動かす。


「僕も理子の主治医に話しておきたいことがあったんです。いい機会です。君から伝えて欲しいんです」

「そ……それなら雨宮さんと一緒に病院へいらしてください。伝言なんて出来ません」


 雨宮さんの旦那さんは首を横に振った。

 

「病院へは行きません。僕が産むわけじゃないんだ」

「なんだよそれ……!」


 思わず大きな声をあげてしまった。エントランスから中年の女性が犬を抱えて出てきて、怪訝な表情で俺達の横を通り過ぎる。「デカい声だすなよ」と雨宮さんの旦那さんに舌打ちされた。


「……ご自宅に上がることは出来ません。だけど、旦那さんが何かお話したいことがあるなら俺でよければ聞きます。産むのは確かに母親だけどお父さんのお気持ちは俺も知りたいです」


 雨宮さんの旦那さんの目が揺れた。さっきから冷たい言葉ばかり吐く人物は思えないほど狼狽えた瞳。“お父さん”という言葉に反応したのだろう。


「ただその前に……雨宮さんどこかに行かれたんですか? 探しているのならそっちが先です。俺も手伝います」


 雨宮さんの旦那さんは迷っているかのようだった。エントランスから動かずに、手に持っていたスマホをじっと見ている。


「か、勝手に探します! 30分後ここにもう一度戻ってきますから!」


 返事を待ってられず俺は旦那さんの横を通り過ぎる。しばらくして、「僕は駅の方を行ってみます」と背後から声を掛けられた。

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