第33話:今夜、シュークリームあります

 昼まで眠り続けたのをぐっと我慢して起き上がる。折角の休みなんだから日ごろの睡眠不足を一気に取り戻したいところだが、今日は駄目だ。ここが頑張りどころだ。


 俺は眠気眼ねむけまなこでコーヒーを淹れて、そのまま立って食パンを一枚食い、部屋の掃除をした。6畳1Kの狭いアパートの掃除は掃除機を5分かけりゃすぐに済む。なのに、掃除機をかけるのは実に二か月ぶりだった。人を招くわけでもないのになんとなく身の回りを整理して出掛けたい気分だった。答えを前にして俺は少し怖気づいていたのかもしれない。


「……うし」


 ユニットバスの洗面台で髪を整えて、軽く気合を入れる。スニーカーをはいて、背負っていたバックパックの中身を開ける。雨宮さんから貰った雑誌がちゃんとそこに入っているのを確認して、俺は家を出た。


(取材とかって土日もあったりすんのかな……今日が休みだといいんだけど)


 俺は記憶を頼りに雨宮さんの家の周辺を歩く。

 この間、甘やかし屋に一緒に行った帰り、俺は彼女をマンション前まで送った。夜分に女性をひとりで歩かせるわけにはいかなかったからそうしたのだが、思わぬ理由で家を訪ねることになった。このコラムについて直接彼女に話を聞きたかったのだ。洋菓子屋リリーについて、百衣さん以外に聞ける人物は雨宮さんしかいない。


「ここだ……」


 うだうだと考えながらあっという間にマンションの前に到着した。送った日は夜だったから気付かなかったけれど重厚な低層マンションという外観だった。敷地内には木々が植えてあり、エントランスの自動ドアの奥にはオートロックのボタンと大きなソファが置いてのが見えた。天井も高そうだった。俺の築40年木造ボロアパート(もちろん階段だしオートロックなんかついてねぇ)とは、大違いだ。


 ぽりぽりと頭を掻く。ここまで来たはいいものの、この先どうしようかと考える。

 俺は雨宮さんの部屋番号までは知らない。

 カルテを見れば分かるけどさすがにそれは気が引けた。というかそんなことしたら始末書どころじゃない。あくまで偶然を装って、ばったり出会いたかった。もしも雨宮さんが土日休みなら彼女の家の周辺を歩いていれば会えるんじゃないかって目論見だった。


 こんなこと、本当はダメだって分かってる。個人的な理由のために患者さんの家の近くまで来たりしてる時点でダメなはずだ。いや、はずじゃない。完全にダメだ。


「……やっぱ」


 俺は首の後ろに手をやって踵を返した。今さら我に返る。最近、自分が恐ろしい。無言のたぬきを追いかけて深夜に百衣さんの家に行ったり、こうして休日には雨宮さんの家まで押しかけようとしたり。一歩間違えれば犯罪じゃん。


 俺は元来た道を歩き始める。家に帰ろう。どうしても気になるならやっぱり百衣さんに聞くべきなんだ。


「ああ、くそっ……!」


 その時、背後から声がした。

 振り返ると、雨宮さんのマンションから男が出て来た。相当焦っている様子でスマホを地面に落っことしていた。ばちっと目が合い、お互い気まずくて顔を逸らす。


「なんで電話に出ないんだ……」


 背後で男の苛々とした声が聞こえて来た。


「もしもし? さっきの話だけど、とにかく電話なりメッセージなり返して欲しい。いい加減、こんな子どもみたいな真似は止めてくれよ」


 男は留守電をいれているようだった。


(痴話喧嘩かな……?)


 余計なお世話な感想を思い浮かべながら俺は急ぎ足で歩く。こんな所にうろついているのを見られたくはなかった。


「お腹の赤ちゃんのことも、理子のおばあ様のことも俺なりにちゃんと考えて出した決断だよ」


 俺はぴたりと足を止める。背後の男は「とにかくもう一度ちゃんと話し合おう」といって電話を切り、ため息をついた。振り返ると、俺とは反対側の方角に向かって小走りをし始めた。


「あ、あの!!」


 思わず声を掛けた。

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