第29話

「そうだ……百衣さん、朝になったら念のため病院に連れて行った方がいいと思う。今は熱も下がっているみたいだったけど外で倒れてたからどっか怪我してるかもしれないから」

「おう。分かった」


 短くそう答えると、一吹くんは流しに溜まった洗い物を片付け始めた。


「なぁ、薬とかあんのか? もし良かったら俺、病院連れて行こうか?」

「医者のお前が診てとりあえず大丈夫そうなら心配いらねぇよ」

「診察ってほどのことしてないから心配なんだよ」


 そう口に出して、俺は違和感を覚えた。


「あれ、俺が医者だってなんで知ってるの?」

「……百衣から聞いた」


 ふと沸いた違和感は一吹くんの言葉で明確な輪郭を帯び始める。


「いつだよ」

「細けぇことまで覚えてねぇ」

「覚えてる範囲でいいよ。いつ聞いた?」


 確かに俺は甘やかし屋へ行った時に医者であることを間接的に伝えた。雨宮さんのことを俺の指導医先生の患者さんだと紹介した。


 だけど、それだけだ。たったその一言だけで分かるものなのか? 真夜中にだけ、しかも時々しか会わない客の職業を確信めいて話せるものだろうか。


「えーと……お前が百衣の店に初めて来た時じゃねぇか?」


 喉に息が張り付く。一吹くんは今はっきりと「お前が百衣の店に初めて来た時じゃねぇか」と言った。


 俺が医者だという話は雨宮さんと一緒に訪れたあの夜だけなのに。


「夜が明けるぞ」


 一吹くんの言葉にハッと顔を上げる。真っ暗だった台所の出窓がうっすらと白じんでいる。


「いいのか?」


 何故かその問いかけにひどく動揺した。会話の流れ的には“仕事に遅れるぞ”という意味合いなはずなのに、もっと別のことを投げかけられているように感じるのは俺が密かに抱えている疑問のせいだろうか。


「……行くわ」


 縦に割れた狼の口。おいしい証。

 そこから真実が覗けるのかもしれないけれど、手を突っ込む勇気はまだ俺にはなかった。


「おう」


 一吹君は挨拶するみたいに前足を上げた。昔からの友達を見送る時みたいな、ごく自然な仕草だった。


 俺はバックパックの中にスコーンの入った紙袋をしまった。背負い直して居間を通り抜け玄関へと向かう。横目で百衣さんの寝顔を見た。すうすうと穏やかな寝息を立てている。


「……あのさ!」


 俺は一吹くんの方へ振り返る。びくっと一吹くんの毛並みが逆立った。


「こ、これ、ちょっと借りる!」


 ちゃぶ台の上にあったペン立てからえんぴつをとり、これまたちゃぶ台の上にあったメモ用紙を一枚拝借した。


「俺の住所! あと、念のため携帯の番号も。なんかあったら連絡くれよ。百衣さんにも言っといて」


 来た道を戻って、一吹くんに連絡先を書いたメモ用紙を渡す。


「読めねぇよ」

「めんどくせ! なんでそこは急にたぬきなんだよ!」

「お前の字が汚ねぇからって意味だよ!!」


 医者は字が汚ねぇもんなんだよ! ちゃんと伝わるようにお前も言えよ!とぎゃあぎゃあ喧嘩しながら、俺はメモ用紙の裏に書き直して急いで山を降りた。

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