第30話

 シャワーだけ浴びて、部屋のカーテンレールに吊るしたまんまのTシャツとさっきまで着ていたパーカーを手に取って駅へと向かって走る。


 シャワー浴びた時間が無駄だったんじゃないかと思った。駅に着く頃には俺は汗だくで、階段の手すりを持ってホームへ続く階段をよろよろと登る。


「大丈夫ですか?」


 ふと、女性の声が頭上に降って来た。自分の傍に誰かが寄り添っていることに気が付いて顔をあげると雨宮さんだった。かっちりとしたスーツ姿で一瞬誰か気付かなかった。


「駅員さん呼んできましょうか? 体調悪い時は待合室で休ませてくれますよ」

「あ……全然大丈夫っす。遅刻しそうになって走って来ただけなんで……!!」

「そうだったんですね……お疲れ様です」


 そういうと雨宮さんは自分のレザーのショルダーバッグからペットボトルの水を差し出す。まだ蓋の開けられていない新品だ。


「いいっす! いいっす!」


 患者さんに気を遣わせてしまうだなんて最悪だ。ホームを歩く人が俺達の方をちらちらと見ていた。まさかへばっている方が医者で、水を差し出している方が患者だとは誰も思いもしないだろうな。


「ここは別に病院じゃないですよ。だから、ほら」


 雨宮さんはくすりと笑った。遠慮する俺の心の中を読むみたいに、少しだけ砕けた言い方をした。俺に気を遣わせまいとしている。


「すんません、じゃあ……」


 俺は素直に雨宮さんからペットボトルを受け取った。電車が到着して一緒に乗り込む。俺と雨宮さんは偶然にも同じ方向へ向かう電車だった。


「大丈夫ですか……?」


 朝のラッシュの時間帯。ダメもとで俺は開いてる席を探したが乗り込んだ時点で満員だったからどこも空いていなかった。俺は優先席の前に彼女を促したが笑顔で首を横に振るだけだった。


「これから会社ですか?」

「ええ。でも今日は取材なんです。あ、甘いもの好きの先生ならご存じかも……ここなんですけど」


 つり革を持って隣に立つと、雨宮さんはスマホの画面を操作して俺に見せようとした。


「パリで話題沸騰のブーランジェリー、ついに日本上陸……?」


 画面に映ったのはネットニュースの記事だった。俺が読み上げると雨宮さんは補足してくれた。


「もうすぐオープンするお店なんです。今日はマスコミ向けのプレオープンの日で」

「ああ、雨宮さんはグルメ雑誌の編集さんでしたよね。大変ですね、つわりもあるのに食べ物の取材って……」

「最近は少し落ち着いてきましたから」


 俺は少し悩んで、思い切って切り出した。


「取材って同僚の方に変わってもらえないものなんですか? 妊婦さんがこんな大荷物持って移動だなんて危なくないのかなって……」


 「余計なお世話だったらすみません」と付け足したけど本心だった。俺の肩には雨宮さんから半ば強引に引き取った彼女の荷物が掛けられている。水のお礼というわけじゃないけど、座席も空いていないし少しでも力になりたかったのだ。彼女のバッグの中にはデジカメ、ノートパソコン、雑誌の見本誌と重たいものばかり詰め込まれていた。


「……まだ会社に言ってなくて」


 雨宮さんは少し間を置いて、困ったように笑った。


「マジで……すんません。俺……ほんっと……!」


 ガリガリと自分の額を掻く。最悪だ。デリカシーが無さ過ぎる。なんでこうも思い至らないんだろう。


「違う違う! お腹が目立つまでは誰にも伝えないつもりだったんです。私何度も流産してるから確証が持てるまでは上司以外には言いたくなくて……だから言ってないだけなんです。検査を受けたからは関係ないですよ」


 自分のお腹を見つめながら雨宮さんは言った。

 

「だけど、そもそも妊娠や出産にどのタイミングにも確証なんてないんですよね。ここまで来たの初めてだから分からないことだらけです」


 俺は無言で頷いた。情けねぇけどそれしか出来なかった。


『次は白羽橋ー、次は白羽橋ー』


 電車が少しずつスピードを緩め、病院の最寄り駅を告げるアナウンスが聞こえてきた。


「荷物、ありがとうございます。助かりました」

「いえ……気を付けて行ってきてくださいね」


 俺がバッグを返すと、雨宮さんは中から雑誌を一冊取り出した。


「あの、もし良かったらうちの雑誌読んでみてもらえませんか? 私、編集コラムを任されていて、先日行った甘やかし屋さんについて書いたんです」


 雨宮さんが手に持っていた雑誌は普段そういう類のものを読まない俺でも名前を知っているような有名な雑誌だった。


「一応お店の名前や具体的な場所は伏せてます! この間いただいたフルーツポンチが美味しくて、本当は改めて取材のお願いをしたくて後日お店に伺ったんです。だけど道に迷っちゃったみたいで全然見つからなくて……」

「あ、ああ……あの店、場所がなかなか分かりづらいんすよね! 百衣さんひとりでやってるから毎日開店してるわけじゃないみたいで!」


 有名雑誌に百衣さんの店が取り上げられたりしたら……。

 俺は想像するだけで血の気が引いた。単に店が忙しくなるだけの話じゃない。喋る上にお菓子まで作れるたぬきの存在が明るみに出て、百衣さんの正体を探ろうとする輩が現われるに決まっている。


『話題のスイーツ! 美人店長の正体はたぬき?』

『家族は? 年収は? 彼氏はイケメン研修医? 話題の美人店長について調べてみました』


 ネット検索で見るようなデタラメ記事のタイトルまで思い浮かんでしまう。

 せっかく引っ込んだ汗を再びダラダラと流しながら説明する俺を見て、雨宮さんは「やっぱり?」という反応をした。


「こじんまりしたお店だったし、変にうちで取り上げたりしたらご迷惑になるかなとは思ったんです。じゃあ、取材はやめておきますね。でも、またあのお店のスイーツは食べたいです。榛名先生、空いてる日があったら教えてください」

「も、勿論です!!」


 俺はうんうんと全力で頷く。電車が丁度駅に到着して雨宮さんと別れた。扉が開いて、窓の外から雨宮さんを見る。お互い軽く会釈した。


 目の前で電車が通り過ぎるのを見守ってから俺は改札口へと向かった。

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