第19話
これで今夜開いてなかったらかなり気まずいなと内心焦っていたが、ほっと胸を撫でおろす。
久しぶりの帰路。足が覚えてるみたいにすいすいと歩く。閉店した24マートの跡地はすっかり空き地になっていた。その横を通り過ぎると見慣れた光が目に入った。クリップライトがついた小さな立て看板。その看板を見ると、
『今夜、白玉フルーツポンチあります』
そう、チョークで書かれていた。
「え、ちょっと……ここって本当に通っていいんですか……?」
初見だとやっぱりそう思うよなぁなんて内心苦笑しながら、俺は雨宮さんを後ろに連れて歩く。
「そこ、足元ちょっと濡れてるから気を付けてください。ゆっくりでいいですからね」
スマホのライトをつけて後ろ手で持ち、雨宮さんの足元を照らす。俺一人なら暗くても真っすぐ行けばいいだけだけど、今日はそういうわけにいかない。慎重にゆっくりと彼女を導いていく。
ビルとビルの隙間、細くて狭い路地の奥を進むと、アンティーク風の木製ドアの見えてきた。窓枠に施されたショートケーキ形のステンドグラスからオレンジの淡い光がこぼれている。
(なんか緊張するな……)
ドキドキしているのが自分でも分かる。俺はふーっと軽く息を吐き、ゆっくりとドアノブを回した。
「千昭さん!」
いらっしゃいませよりも前に自分の名前を呼ばれたことに頬の筋肉がぶるりと震えた。久しぶりの百衣さんの姿、こじんまりしたショーケース、ぽわんと柔らかな明かりが灯った店内。俺は嬉しくて嬉しくて、それだけで胸が一杯になってしまった。
「あ、お客様! いらっしゃいませ!」
「お、俺も一応客なんすけどね……ええと、俺の指導医先生の患者さんです」
今度は嘘をつかずに正確に紹介する。
「ここは……ケーキ屋さん?」
雨宮さんは恐る恐るという表情で店内をぐるりと見渡す。
「甘やかし屋です!」
百衣さんは笑顔で、そして俺に初めて言った時のように自信たっぷりに答える。
「……ああ、なるほど。お菓子の甘いに掛けてあるのか。お店の名前、素敵ですね」
雨宮さんはすぐにそれが店名だと気付いた。しかも百衣さんのネーミングセンスを褒めるものだから百衣さんはますます笑顔になった。
「おお、さすが編集さん。俺は初めて聞いた時それを言うならお菓子屋だろって突っ込んじゃいました」
雨宮さんは複雑そうな顔で苦笑した。ぱちり、と百衣さんと目が合う。足が遠のいていた気まずさと顔が見れた嬉しさとで俺はぱっと顔を反らしてショーケースを見る。
「あ、あの、きょ、今日のお菓子まだありますか?」
「もちろんです! 実は今夜は新作なんですよ!」
ショーケースにはキラキラと輝く宝石が並んでいた。
「白玉フルーツポンチってさっき看板に書いてありましたね。なんかお店で見るって新鮮だなぁ」
透明の小瓶につるつるの白玉と果物がぎっしり詰まっている。真っ赤なさくらんぼ、丁寧に皮が剥かれた葡萄、緑色のやつはメロンだろうか。どれも形状が丸で統一されている。ころんころんとしていて可愛かった。
「シロップはお持ち帰りの時にこぼれないようクラッシュゼリーになっています!」
百衣さんが説明してくれた。
「あ……このお菓子、材料にアルコールは使われていますか?」
雨宮さんが少し申し訳なさそうに百衣さんに尋ねる。
「いえ! お酒は一切入っていません!」
雨宮さんはほっとした笑顔に変わった。
「百衣さん、また店の中で食えたりします?」
「はい、もちろんです! 何か飲まれますか?」
「出来ればカフェインが入っていないのがあると……あと温かい方がいいか。色々と注文多くて悪いんすけど……」
「大丈夫ですよ! 準備しますので座ってお待ちください!」
百衣さんはショーケースから二つ小瓶を取り出し奥の厨房へと入っていった。俺と雨宮さんは壁際に備え付けられた小さな椅子に座って待つ。
「こんな遅い時間に急にお誘いしてすんません」
「いえ、どうせあのままどこかのカフェで時間を潰すつもりでいましたから。それに、結果的に家の近くまで送ってもらうことになっちゃいましたね」
妊婦さんを長時間歩かせるわけにはいかないから甘やかし屋に誘う前に店の場所、つまり俺の家の最寄り駅を雨宮さんに伝えた。偶然にも雨宮さんの家と沿線が同じだということが分かった。
「さっき、飲み物も気を遣っていただいてありがとうございます」
「あ……いや、妊婦さんは大変ですよね。食事とか色々制約があるから」
胎児は母体から胎盤を通して栄養を摂取する。つまり、妊娠中のお母さんの食事はおなかの赤ちゃんの成長や発達に影響を及ぼす可能性があるのだ。妊娠中は避けた方が良いとされる食材がいくつか存在する。その一つがアルコールだ。
「お菓子に使われているものは香りづけ程度だから大丈夫って書いてある本もあれば少量でもNGと書いてある本もあって……同じ妊娠に関する本でもこんなに書いてあることが違うんだって戸惑いました」
「ああ、確かにそうですよね。雨宮さんはお仕事的に本に書かれている情報が不統一だと違和感ありますよね。書いてあることが違うと悩んじゃいますし」
雨宮さんは複雑そうな顔をした。
「榛名先生はきっと……色々と私のことご存じなんでしょうね」
「えっ?」
「診察では一度もお会いしたことないのに、私の仕事のことまでよくご存じだから」
雑誌の編集者であることはカルテの仕事欄に書いてある。瑞稀さんたちとの会話でも聞いたことがある。だけど、
「う……あ……も……申し訳ありません……」
サーッと血の気が引いた。
完全にやばい。これ……もしかして業務違反じゃねえか。いやもしかしなくてもそうだろ。完全アウトだろ。そもそも患者さんをこんな遅い時間に医療とは関係ないことで接触してるなんて。もしも瑞樹さんや漆山先生に知られたら怒られるどころの話じゃ済まない。
「あ! 違う、違う! 責めてるわけじゃないんです!」
大量の汗をダラダラ流している俺に察して雨宮さんが慌てて手を振る。
「主治医じゃなくても患者の情報が共有されることは別におかしなことじゃないです。漆山先生とお仕事をされている研修医さんならなおさらですよ」
だから、と言いながら雨宮さんは自分のお腹を見つめた。
「私のお腹の赤ちゃんの状態もきっとご存じなんでしょう?」
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