第12話
「千昭さん、いらっしゃいませ!」
ドアを少し開けた瞬間、百衣さんが笑顔で俺を出迎えてくれた。扉を開ける前から俺が来るとわかっていたかのような反応が嬉しかった。
一吹くんは俺が開けたドアの隙間からにゅっと身体を滑り込ませ店内に入り、途端に四足歩行から二足歩行に切り替わった。二足歩行のたぬき。慣れはしないが前回ほど驚きはしなかった。
あの夜、俺はどうやって自分の家に帰ったのか、俺の母さんとどういう関係なのか、百衣さんに聞きたいことは沢山あった。
だけど、仕事で落ち込んでいる今はなんだかどうでも良くなっていた。それよりも目の前のショーケースの方が気になる。
今日はピンクの大皿に、綺麗にカットされたロールケーキが並べられていた。断面にはぎっしり詰まったフルーツが覗いている。
「これって人間も食える果物?」
「失礼だな! その面の皮、引っぺ剥がすぞ!」
俺のジョークに一吹くんが牙をむき出しにして怒った。ごめん、ごめんと俺は謝罪した。
「ちゃんと食べられる果物ですよ。中にね、桃とブルーベリーが入ってるの。うちの畑と桃の木で育てたんです」
「百衣さん、果物も育ててるんですか?」
「果物以外にも、お菓子作りに使えそうな野菜も育てています。かぼちゃやにんじんとか。5月に植えたさつまいもはもうすぐ収穫を迎えます」
「ケーキ以外にも色々作ってるんだ。すげぇ」
敬語とタメ口が混じった会話になるのは、彼女との距離を計りかねているからだ。
人間なのか、たぬきなのか。君は一体何者なの?
「ハーブも育ててるよな! お菓子の材料にしたりお茶にして飲んでもいるし」
一吹くんが俺に教えてくれた。
「えっ!? そうなの?」
「うん。まだ始めたばかりだからうまく育てられないこともあるけど……」
照れくさそうに百衣さんは笑った。俺はなんだかその笑顔を見て顔がほころんだ。さっきまで腐っていた気持ちが少しずつ晴れていく。
「そうだ! 良かったら今日のケーキ、ここで食べていきませんか? ハーブティーも出せますよ」
「えっ!? いいの?」
「はい! 準備してきますね」
そういって、百衣さんは店の奥へと入っていった。
「……お前、好きなの?」
「はぁ!? ばっ……! そんなんじゃねぇって!!」
一吹くんの発言に俺は顔を真っ赤にして否定した。
「ロールケーキのことだけど。ぶはははっ!!」
「…………!!!!!!」
こいつ! こいつ! こいつ!
たぬき汁にしてやろうか!!
「どうしたの?」
厨房からケーキ皿とハーブティーの入ったポットを持って百衣さんが出てきた。
「い、いや、何でもないです」
イートイン用のスペースに腰かけて百衣さんからお盆を受け取る。ガラス製のポットの中で鮮やかな緑の葉がゆらゆらと揺らめていた。
「ハーブティー苦手な人もいるから千昭さんの好みの味だといいんだけど……」
「っす」
「こいつ絶対好きだと思うぜ」
「お前しつけぇな!!」
からかう一吹くんに突っ込みを入れる。百衣さんが不思議そうに俺の顔を見るもんだから、俺はさらに顔が赤くなる。それを見て、一吹くんがまた豪快に笑った。つられて百衣さんも笑った。俺も、笑った。
こんな風に誰かと一緒に笑い合うなんて、いつぶりだろう。百衣さんに「いらっしゃいませ」と出迎えられると、なんだか「おかえりなさい」と言われたような気分になる。
ずっとこのまま。この夜のままだったらいいのにと、俺は幼い子どものようなことを考えていた。
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