第9話:今夜、ドーナツあります


「すみません……ありがとうございます」


 甘やかし屋から濡れタオルを受け取る。俺は腰を抜かした際に、思いっきり地面に全身をぶつけてズボンとシャツが汚れてしまった。


「手を出してください。消毒しましょう」


 俺が洋服の汚れを軽く落とし切ると、甘やかし屋が救急箱を持って隣に座った。石ころが集まったところに手をついてしまい軽く擦り傷になっている。

 俺は素直に手を出す。甘やかし屋はコットンに消毒液をたらして、そっと俺の掌をぬぐい、絆創膏を貼ってくれた。


「他にどこか怪我していませんか?」

「あ、いや……もう大丈夫です」


 研修医が治療してもらって、情けなくなった。医者だって怪我や病気をするのは当たり前だが、人んちに不法侵入した上に怪我までしてご厄介になるだなんて情けなさの極みだ。全て自分が招いたことだが。


「良かったら、こっちもドーゾ」

「ぎゃっ!!」


 たぬきがコーヒーを俺の前に差し出そうとした。トレーにコーヒーを乗せて。シュガーポットとポーションミルクまで添えて。二足歩行で。


「……いらないなら下げるけど」


 たぬきはむっとした様子で俺を睨む。毛むくじゃらの顔なのに睨んでいるようにちゃんと見える。


「あ、いや……ありがとう……いただきます……」

「どーいたしまして」


 たぬきはふんっと顔を背けて、奥の台所へと下がっていった。


「あの……どうしてここに?」


甘やかし屋が俺に尋ねる。


「あ……この間クッキーにおまけつけてくれたじゃないですか。そのお礼を言いたくて店に行ったら開いてなかったから。途中、あのたぬきの後ろ姿をみかけてついて来たんです」

「たぬきって呼ぶなよ! 名前がちゃんとある!」


 台所からたぬきが怒って顔を出した。今度はトング持ってら……。


「ごめんなさい。あの子の名前は一吹っていいます。一に吹くと書いてイブキ。私は百衣。百に衣と書いてモエです」

「あ……俺は榛名千昭です。はるなでも、ちあきでも、どっちでも呼びやすい方で」

「じゃあ、千昭さんで」

「あだ名は“人間”にしようぜ」

「もう一吹くん!」


 台所からぶははっと笑い声が聞こえる。きゅーんとは鳴かないのか……。


「あの……一つ聞いてもいいですか……?」


 俺は百衣さんに恐る恐る尋ねた。


「あの子は……人間なの?」


 ぶはっ!と、吹き出すような笑い声がもう一回。


「一吹くんはたぬきです」

「え……? じゃあ、どうして人間の言葉を喋ってるの? てか、なんでお菓子作ってんの?」

「私のいとこなの。私が一人で大変だからってお菓子作りを手伝ってくれているんです」


 ――今、何と言った。いとこ?


「えっ? どういうこと……?」


 俺の質問に百衣さんは困った顔をして黙り込んでしまった。


「おーい! 第二陣も揚げ終わったぜー! せっかくだからみんなで試食しようぜ!」


 一吹くんが両手でバットを抱えて居間へと戻ってきた。どんっとテーブルの上に置く。


「うわぁ……」


 揚げたての大量のドーナツだった。いい香りの正体はこれだったんだ。


「良かったら、どうぞ」


 百衣さんが水屋箪笥から小皿をとってきて、トングでドーナツを取り、小皿の上に置いて俺の前に差し出してくれた。


「洗いもん増えるから直でとらせればいーのに」

「いいの! 千昭さんはお客さんだよ!」


 二人(単位は人はじゃない気もするが)のやりとりを聞きながら、俺はドーナツをそっと口に運んだ。


「うまぁ……」


 感嘆交じりの俺の第一声に、百衣さんも一吹くんが顔を見合わせて笑った。


「そりゃ良かったな。こっちは中に生クリームが入ってるやつだぞ! 俺はこっちの方が好き」


 一吹くんは俺の皿にもう一個乗せながら、自分もドーナツに手を伸ばす。百衣さんは俺にコーヒーのおかわりを入れてくれた。


 むっちりとした生地が油のうまみを吸い込んでいる。砂糖もチョコレートもかかってないシンプルなドーナツなのに、味わい深くてめちゃくちゃうまい。それに――


「なんか……懐かしいな」


 ぽつりとこぼした俺の言葉に百衣さんが反応した。


「……もしかして、思い出しましたか?」

「えっ?」

「このドーナツは私の父のレシピです。お店の定番商品でした。"洋菓子屋リリー"、覚えていませんか? 千昭さんは、お母さんと一緒に時々うちのお店でお菓子を買っていたました。このドーナツも」

「いやいや、ちょっと待って……!」


 この街にまだ住み始めて一年ちょっとしか経っていない。研修医となり配属先の病院へのアクセスが良かったからここへ引っ越してきただけだ。ここは俺の地元じゃないし、昔、この街に母さんと来たことも身に覚えがない。


「この街は俺の地元じゃないすよ。勤め先まで近いからここに引っ越してきただけで、引っ越してきてからも駅前とうちのアパートの周辺位しか散策したこともない。もちろん洋菓子屋なんて知らない。そのリリーって名前の店だって今初めて聞いたし……」


 俺の言葉を聞いて、百衣さんは我に返ったようにハッとした表情をした。そのあと、小さな声でごめんなさいと言って俯いた。


「百衣さんは俺の母さんの知り合いなんですか……? 俺が母さんと一緒に買いに来てたって……俺たち、昔どこかで会ったことがあるんですか?」


 百衣さんは黙り込んでしまった。そして、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


「あなた……一体何者なんですか……?」

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