第6話:今夜、ミックスクッキーあります
「榛名先生、午後からは診察補助ですけど準備大丈夫ですか?」
助産師の瑞樹さんに声を掛けられ、血の気が引いた。
「あっ! すみません! まだです…」
じとっ……とした目で瑞樹さんに睨まれて(本人はいつも睨んでないと言い張るが)余計に冷や汗が止まらなくなった。
「すみません……すぐやります!」
「今日は午前中から手術助手もあって大変なのはわかりますが、診察もしっかりお願いします」
すみません、ともう一度謝り、慌ててパソコンを立ち上げて今日午後から予約が入っているる患者さんのカルテに目を通す。
瑞樹さんはこの病院に勤めて10年以上のベテラン助産師さんだ。助産師副部長を務め、俺のような研修医に対しても何かとフォローをしてくれる(と、俺はポジティブに解釈している)
「漆山先生、今日のこの患者さん先に血液検査からでよろしいですよね?」
「ん……」
二人の会話に俺はカルテに目を通しながら、手が止まる。
「雨宮さん、午後診で一番目の方だよね」
「はい。日数的に結果は今日分かると思いますとは、お伝えしてあります」
「わかった」
俺は目の前のパソコン画面を食い入るように見つめた。映し出されているのは瑞樹さんと漆山先生が話をしている患者さんのカルテだ。
患者の名前は雨宮理子。備考欄の『AIH』という文字があった。
*********************
昼飯を食う暇もなく、午後の部の診察時間となった。
「じゃ、始めますか。榛名くんは後ろで待機していてくれる?」
「わかりました」
「声は聞こえると思うから、患者さんの話はよく聞いておいて。君は今、研修医だけど産婦人科医でもある。これは産婦人科医師として、とても大事な診察だから」
漆山先生の言葉に俺は深くうなずき、診察室裏にある医療器具が保管してある通路のパソコンデスクで待機した。カーテンで仕切られているため診察室の様子は見れないが、壁越しで漆山先生のデスクの真裏に位置する。
「どうぞ、お掛けください」
漆山先生の声の後、きぃと、診察室の椅子キャスターが転がる音が聞こえた。
「先生、今日結果が分かる日ですよね」
女性の声。患者の雨宮理子さんだ。
「はい。血液検査の結果はこちらになります。hCGは20でした」
長い長い沈黙の後、深いため息が聞こえた。
「やっぱりだめだったかぁ」
「いや、分かってたんです。実は待ちきれなくて家でフライングしちゃったから」
「だから、うん。はい。わかり、ました」
「やっぱりなかなか難しいですね。年齢のことを考えれば、そりゃそう、ですよね」
雨宮さんは努めて明るく話そうとしているように感じた。言葉があふれ出るように一気にひとりで喋っている。漆山先生は彼女の話を遮ることなく、静かに耳を傾け続けていた。
AIHとは体外受精、hCGは妊娠の早期診断で測定されるホルモン値のことだ。このホルモンは妊娠中にのみ分泌量が大きく増える。
雨宮さんに告げられた数値は非妊娠と検知される数値だった。
午後の診察は不妊治療の専門外来の時間帯だ。不妊治療外来の場合、通常の診察と異なり、研修医の俺は基本診察室外で待機している。当たり前だが、産婦人科に来る人は全員女性だ。男の医師、しかも担当医以外の医師がいることに強いストレスを感じる人も少なくない。
俺が配属された病院では、なるべく患者さんのストレスを減らすため、研修医が診察に立ち会う際は本人に許可をとるようにしている。許可がとれれば、エコーをするなど妊婦さんの診察補助を行うこともある。
ただ、不妊治療の場だけは例外だった。基本、研修医は同じ診察室には入らず、患者さんからは見えない場所で待機している。不妊治療は、心身ともに患者さんの負担が大きい。見知らぬ研修医が傍にいるだけで余計な負担を掛けてしまうこともあるのだ。
午後の診察が終わり、研修医室で報告書を作成していたら、夜23時を過ぎていた。今日は勉強会もないし早く帰れるかと思ったが、午前中の手術の振り返りや調べ物をしていたら結局こんな時間になってしまった。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
夜勤で残っている先生や助産師さんに会釈をして、エレベーターホールへと向かった。
エレベーターが一階に着き、病院の関係者出入口から外に出る。その場で俺は深呼吸をした。16時間ぶりの下界だ。外気がうまい。
「どうして分かってくれないの!」
突然の女性の怒鳴り声に肩が上がる。驚いて辺りをきょろきょろと見渡すと、タクシー乗り場のベンチに座った女性が電話をしていた。
「また次、じゃないのよ! 一回、一回がどれだけ辛いかどうして分かってくれないの……あなたがそんなんだから家に帰りたくないの……!」
聞き覚えのある声だった。
「次こそ妊娠してるって、そう信じてがんばってきたよ。なのにまたダメで……ううっ……」
今日の午後診の雨宮さんだ。漆山先生と明るく話、次の移植日の予約もとっていた人とは思えないほど感情的に電話をしている。
午後の診察が終わってから、もしかしてずっと病院の辺りにいたのだろうか。
俺に気づいて、雨宮さんは慌てて声量を落としベンチから立ち去って行った。
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家に向かう足取りが重い。仕事の疲れからじゃない。さっきの雨宮さんの声を聞いたからだ。
「早くこの研修終わらねぇかな……」
やっぱり、俺には産婦人科はキツイ。自由選択で産婦人科を選んだことを後悔し始めていた。母さんは婦人科系の病気を患っていたから、俺が医者を目指すと言った時、同じ病気の人を一人でも多く救ってほしい、命の誕生に携われる医者になって欲しいとよく言っていた。俺もそのつもりだったし母さんの気持ちに応えたかった。
いいこともある。それもわかってる。出産は感動的だ。命の誕生に立ち会えることはとてもすごいことだ。だけど、そこに行きつくまでの道のりがどれほど険しく、厳しく、残酷か。俺がそのプレッシャーに耐えられない。
一年目の時にも産婦人科の研修は受けたが、ほんの一か月程度じゃ何も見えていなかった。こんな気持ちで患者さんを支えられる医師になれるとはとても思えない。
なにより産婦人科は必然的に患者さんは女性ばかりだ。
女性が泣いているのを見るのが辛いんだ。母さんを思い出すから。
ああ、早く家に帰りたい。
何も考えずにベッドで眠りたい。
前も向かずに歩いていると、コツンで何かを蹴とばしてしまった。
『今夜、ミックスクッキーあります』
あのプリン屋の立て看板だった。
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