第3話


 アパートに帰り、シャワーを浴びて、ソファに腰を下ろした時には深夜1時を過ぎていた。


 7時間後には朝回診だ。明日は(というかもう今日か)夜に勉強会もあるからその準備もしとかねぇと。


 ああ、やっぱり家に帰ってきたのは間違いだったのかもしれない。病院に泊まっておけば、通勤時間分は睡眠に充てられた。数分でも数秒でも寝ていたい。時間がない。24時間じゃ全然足りない。医学部を受験していた時からずっとこ――

 

 いや、よせ。こういうことを考えていること自体、時間のムダだろうが。


 俺はソファから立ち上がってキッチンへと向かった。

 電気ポットのスイッチを押す。シューッとお湯を沸かす音がなり始める。その間にインスタントコーヒーの袋を開けて、マグカップにセットする。喫茶店を営む叔父さんが買ってくれたコーヒーミルとガラス製のドリッパーはもう随分と前からインテリアと化してしまった。


 叔父さんごめん。もう少ししたらきっと豆をひく時間ぐらいとれるようになると思うんだよ。もう少しの我慢なんだ。

 

 湧いたお湯を静かにゆっくりと中心から小さく円を描くように注ぐ。叔父さんに教えて貰ってからどんなに急いでいてもこのやり方だけは短縮できなくなった。正直、俺はそんなにグルメな舌ってわけじゃないから、味の違いは大して分からない。

 だけど、どうせなら旨いコーヒーが飲みたいって願望はある。それに今は例え数分でも24時間の中で自分のためだけに使えるひと時が欲しかった。


 数回に分けてお湯を注ぎ、カップがコーヒーで満たされていく。香ばしい、いい香りが1Kの部屋に広がる。その香りを嗅ぎながら、俺はようやく少しほっとすることが出来た。


 冷蔵庫からさっき買ったプリンの箱を取り出す。片手にコーヒーとスプーン、もう片手にプリンの箱を持ち、ソファに座りたいのをぐっと我慢してパソコンデスクの椅子に座る。パソコンに電源を入れながら、立ち上がりを待てずに、いそいそとプリンの箱を開けた。


「どっちから食おうかなぁ」

 

 どうせ両方一人で食うのに、無駄なチョイスをしながらも俺の心は踊っていた。


 まぁでも正直、味は期待していない。

 なんせ100円だ。一個50円。

 食えりゃいい、甘けりゃいい。

 とりあえず糖分で脳に喝を入れられれば何でもいい。


 俺は赤と白のチェック柄のラッピングがしてある方を手に取った。こっちがバニラ、だったよな。まずは王道からいただきます。


 スプーンでプリンをすくう。くっと表面に軽い抵抗を感じた。なるほど、固め系か。最近流行ってるよな、固いプリン。レトロプリンって言うんだっけ。叔父さんの喫茶店でも固いプリンがメニューにあるけど、最近は若い女性がよくオーダーするって言ってたな。


 大き目にすくい、プリンを口へと運んだ。


「うっま……!!」


 固めの弾力からは想像できないほど、なめらかな口どけだった。口に入れた瞬間に消えた。なのに後味はしっかり残っていて、卵の味が濃いことがわかる。

 せかされるようにもう一口食べた。やっぱりうまい。そのうまさにため息が出た。ため息と一緒に鼻に抜けたバニラのいい香りにうっとりする。


「もうなくなっちまった」


 気づいたら三口で食べ終わってしまった。コーヒーを一口飲んで、2個目のプリンへと手を伸ばす。今度は少し控えめにすくって食べた。


「ううううっま……!!」


 チョコレートの濃厚さがたまらない。コクがあって、でもしつこくない。こんなに濃厚なのになんだこれ。不思議な感覚だ。ほんのりオレンジとお酒の風味も感じる。ブラックコーヒーにめちゃくちゃ合う。


 ゆっくりちょっとずつ食べようと思っていたのに、結局こっちも三口で食べ終わってしまった。


「はぁ、マジでうまかった」


 コーヒーを飲みながら、しみじみとため息が出た。ポジティブなため息なんて久しぶりだ。うまかったなぁ。こんなうまいプリン、初めて食ったかもしれない。


 血糖値がぐんぐん上がっているのが自分でも分かる。血糖値の上昇に自覚症状なんてないって言われてるけど、俺は懐疑的だ。いつも甘い物を食った後はものすごい多幸感に包まれるんだ。


 普段、患者さんへの回診で「退院後も血糖値を下げる食生活を心がけてください」なんて偉そうに言っている立場上、あまり人には言えないし、なんだかやばいヤツと思われるのも嫌だから自分の胸にしまっているだけだが、甘いものを食った後は生きている実感がする。

 それこそ激務生活に追い詰められている証拠だろうと思っていたが、今日は何だか違った。本当に満ち足りた気分だった。


「……うし、やるか」


 空のプリンの容器をデスクの端に寄せて、俺はパソコンに向かった。

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