絆の風景 11/悪夢再び

 倫道は反射的に後退し、戦慄を感じながら空を見上げる。

 顔にかかる大きな影と強い風。

 まるで岩石みたいな硬質な皮膚に覆われ、二本の巨大な翼が空気を切り裂きはばたく。

 伝説的な妖魔『岩羽斬がんばざん』が突如として現れ、彼らを射る赤く光る目からは、冷酷な殺気が放たれていた。


 一方、清十郎の眼前に広がる景色は、まるで悪夢の中に突き落とされた様に黒く揺らめいていた。

 突如現れた『岩羽斬』の巨大な姿は、彼の心の奥底にしまい込んでいた最も深い恐怖を呼び覚ましていたのだ。


 清十郎の顔は、深いショックと驚きで固まる。

 その瞳は拡大し、唇はわずかに震えていた。

 かつて起こった悲劇。その加害者との突然の再会に、彼はまるで時間が止まったかの様に動けなくなっていた。


「まさか……」と彼の声は小さく震えていた。

 岩羽斬の存在は、彼にとってただの妖魔以上のものだった。それは彼の過去、彼の心の傷、そして彼が乗り越えなければならない最大の障害を象徴していた。


 清十郎は呼吸が浅くなり、体が自然と硬直している。

 彼の心は恐怖で満たされ、まるで現実逃避をするかの如く周囲の状況を拒絶していた。


「清命兄さん……」


 その名をつぶやきながら、清十郎は過去の記憶に引きずり込まれていく。

 彼の心は、兄を失った悲しみと恐怖に支配されていた。

 彼の表情は恐怖で歪んでおり、その眼差しは遠い過去を見つめていた。


「御堂司令から戦えと…… これも試験の続きなのか……」


 倫道は、空中で悠然と羽ばたく岩羽斬からチラリと御堂たちのいる場所へ視線を向ける。

 彼らは動かない。

 どうやら本当に自分達だけで目の前の怪物を倒せということらしい。

 深く息を吐き出し、覚悟を決める。


「清十郎、俺が前に出て――」


 そう言いかけた倫道は清十郎のただならぬ様子に気付き、彼の元へと急ぎ寄った。

 彼は清十郎の肩を掴み、力強く揺さぶりながら声をかける。


「清十郎! 大丈夫か? しっかりしろ!」


 しかし、清十郎の心はすでに過去の出来事に囚われていた。彼は倫道の声に反応する事なく、ただ岩羽斬の姿に釘付けとなっていた。


「ゴガガガァアアアアアアアアアアアアア〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


 岩羽斬はその巨大な身体を軽々と動かし、再び破壊の波を広げた。その動きは、その巨体に似合わず俊敏で、空を支配する威圧感があった。

 鋭く尖った牙と爪は、ただの存在だけで脅威を感じさせる。


「くっ――⁈」


 岩羽斬を中心に衝撃波は広がり、彼らの目の前には土埃が舞う。

 倫道は未だ呆けている清十郎を庇いながら、急いで戦闘態勢を整えた。

 彼は精神を落ち着かせ「黒姫」と唱えると、その姿を黒炎と化し、構えている太刀へ纏わりつかせる。


 一方、清十郎はまだ過去の記憶に捕らわれていた。

 彼の心は重い鎖に繋がれ、動くことができない。

 彼の眼前には、かつて兄が命を落とした悲痛な場面が繰り返し映し出されていた。


「兄さん…… 僕が…… 僕が……」


 ボソボソと呟く清十郎。

 そんな彼を背中に隠して、倫道は岩羽斬へ刃を向ける。


「清十郎! 一体どうしたんだ⁈ あの妖魔を知っているのか?」

「ああ…… 知っている…… 知ってるさ。あいつは『岩羽斬』…… 幼い俺を守るために兄様が、その命と引き換えに封印した妖魔だ……」

「なっ⁈」


 衝撃の告白に思わず肩口から清十郎の顔を見る。

 真っ青になり、ただ茫然と見つめている同期の顔に、恐怖と後悔の色が感じられた。


「……その妖魔が封印を解いたってことか?」

「分からない…… いや、そんな筈はない。は実家で厳重に封印されているはず……」

「じゃぁ、別の個体というわけか」

「分からない……」


 倫道の言葉を受けて、混乱している思考の中、かつて幼き頃に対峙した妖魔と目の前の怪物を比べる。


「多分…… 違う…… 以前見た奴より一回りほど小さい気がする…… それに、あんな傷は付いていなかったはずだ」


 大きく翼を広げる岩羽斬。その羽には大きな傷がついていた。

 

「グォォォオオオオオオオオ〜〜〜〜」


 体の底から震えるほどの咆哮をあげ、軽く上空に浮かび上がると驚く速さで倫道たちを目掛けて飛翔する。

 鈍く光る3本の鉤爪が眼前へ迫り来る。


「うぉおおお――」


 咄嗟に刀で受け止めるが、何倍もの体重差が倫道の体を浮き上がらせた。


「くぁっ――⁈」


 激しい衝撃で後方へ吹き飛ばされると清十郎ともども地面を転がる。

 重なる様に転がると、その勢いを利用して清十郎の襟口を掴み距離をとった。


「黒姫――! 【黒焔針】!」


 追撃を図る岩羽斬の顔面へ目掛け、4本の黒焔針を放つ。


「ガァアアアアア」


 妖魔は鋭い反応で首を捻り直撃を避けた。

 しかし、1本だけ首筋に掠った黒焔針が岩の様に硬い岩羽斬の皮膚を貫き小さな炎を上げる。

 思わぬ反撃を喰らった妖魔は、大きく翼をはためかせるとその場から離脱。上空に舞い上がり、こちらの様子を伺うように旋回する。


「くそ、動きが速い。このままじゃあ……」

 

 覚醒状態の倫道は、己の魔力が先ほどよりも上がっている事を感じていた。

 まるで、この場に漂う濃密な魔素を己の内に取り込んでいる様に。

 だがしかし、岩羽斬の圧倒的な力の前では、彼の力も十分ではない事を感じていた。


(俺一人の力では奴には勝てない…… 清十郎と……)

 

 不安にどっと汗が噴き出す。袖口で汗を拭うと同期の顔をチラリと見る。

 絶望の色を貼り付けた表情。

 倫道は清十郎の表情と言葉から、彼の心の痛みを感じ取っていた。


(清十郎は過去の悲劇に心を凍り付かされている…… だけど)


 力なく立ち尽くす清十郎の肩を掴むと耳元に顔を寄せ大声で叫ぶ。

 

「清十郎! しっかりしろ! 今、目の前にいるのは倒すべき相手だ! 戦え!」

 

 彼は清十郎を揺さぶり続け、彼を現実に引き戻そうと必死だった。

 だが、清十郎の瞳はぼやけたままだ。

 

「お前の兄さんは、お前を守るために戦ったんだろう⁈ 今、お前がここで立ち止まれば、その犠牲は無駄になる!」

「でも、俺は……」


 清十郎の声は震えていた。


「くそ!」


 迫る気配に清十郎の肩を乱暴に突き飛ばすと、踵を返し前へ出た。


「うぉおおおおおおおおおお〜〜〜〜〜」

 

 岩羽斬はその巨体を一挙動に動かし、音もなく鋭い鉤爪を掲げ襲い来る。

 その動きは速く、大きな身体からは想像もつかないほどの敏捷さを有していた。

 羽ばたく度に突風が吹き荒れ、周囲の木々はその圧力に揺れた。


 倫道は黄金色に輝く瞳で岩羽斬の動きを捉え、迅速に反応する。

 彼の手からは【影縫い】の魔法が発動され、石翼の妖魔の動きを一瞬でも拘束しようとした。

 しかし、岩羽斬の影はそれを軽々と躱し、続けざまに襲いかかる。

 

「くっそ……」

 

 倫道は、清十郎を守りながら岩羽斬の激しい攻撃を凌いでいた。

 彼の動きは猛獣のように俊敏で、炎を纏った剣は光の帯を描きながら空を切った。

 しかし、岩羽斬の攻撃は容赦なく、その鋭い爪が倫道の肩や腿を掠め、大輪の血の花を散らした。


「くっ―― ⁈」


 倫道が痛みに顔を歪めながらも、切っ先を石翼の妖魔へ向ける。

 肩で大きく息をし、額からは大粒の汗を垂らす。

 訓練着の袖口で汗を拭くと、倫道は覚悟を決めた。


(すまん、清十郎……)


 大きく息を吸い、視線は石翼の妖魔に向けたまま大声で叫ぶ。


「清十郎! お前は助けられた時と同じ弱い存在なのか⁈ 幼子の様に守られなければならないひ弱な存在なのか⁈」

「…………っ⁈」

 

 倫道の声が遠野郷の戦闘場に響き渡る。


「だったら今すぐに尻尾を巻いてこの戦場から逃げるんだな! ここは戦う意志のある者だけがいる場所だ! お前の様に闘うことに怯える者がいる場所じゃない!」

「…………」

「魔法士の名家、安倍家の御曹司と言っても結局は伝統だけってことか!」

「……なんだと」

「久重も五十鈴も龍士も、皆んな闘った! お前だけ逃げるのか?」

「……逃げてなど」

「いや、逃げている! お前は逃げている!」

「ふざけるな! 何も知らないお前が――」

「ああ! 何も知らない! お前の過去も、家の事情も知らない! 知っているのは妖魔に震えて怯えている今のお前だ!」

「貴様――」


 とうとう二人は顔と顔がくっ付くほどの至近距離で睨み合う。

 清十郎は倫道の胸ぐらを掴むと大声で叫ぶ。

 

「お前に何が分かる! 俺の家を侮辱することは許さん!」

「ああ! 分からないさ!」


 倫道は清十郎の腕を捻りあげ、豪快に投げ飛ばした。

 そこへ岩羽斬の鉤爪が空を斬る。


「なっ――」


 投げ飛ばされた清十郎は倫道に助けられた事を知る。

 羽ばたく風圧に視界を遮られながらも、倫道の背中、その先に彼が【黒焔針】を放つのが見えた。

 飛び退く石翼の妖魔は威嚇する様に咆哮を上げると再び上空へ舞い上がる。


「神室……」


 倫道は振り向きもせず、静かに呟いた。


「確かに、お前の過去は今のお前を形作っている。でも、もう過去に囚われ苦しむ必要はない。今、ここで新たな道を歩き出すんだ」


 そして振り向き、優しげな視線を投げかける。


「お前は強い。お前はもう、ひ弱な幼子なんかじゃない。それに俺たち仲間がいる。一緒に戦おう!」


 彼は清十郎の目を見つめ、力強く言い放つ。

 

「――⁈ にい さん」


 その言葉が、その笑顔が清十郎の心を揺さぶった。

 それは、かつて死ぬ間際に兄が言い残した言葉と重なった。兄の顔が彼の心に浮かび、その優しい笑顔が彼の心を縛る鎖を解き放つ。


「清十郎、怯むな! お前の、俺たちの力で倒すんだ!」


 清十郎の目からは涙が流れたが、その涙は決意の涙だった。

 彼の心の奥底に眠っていた炎が再び燃え上がり、彼の全身を包み込んでいった。

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