よりよい思い出

はにかみいちご

1

 退院の日、母は散歩がしたいと言った。河川敷を歩きたいと。

「覚えてる? ここでイツキが迷子になったの」

 河と住宅街を挟む堤防の小道。杖を片手に歩く母が転ばないだろうかとイツキが気を揉んでいると、母が尋ねた。

「ああ。母さんが見つけてくれたのもね」

この河川敷を歩く度に母がする定番の話だ。

 吹きすさむ初冬の寒風に手をこすり、あの日もこれぐらい寒かっただろうか、と思い返す。

 父と喧嘩をして家を飛び出したはいいものの、日が暮れ、帰り道が分からないと橋の下でうずくまってべそをかいていると、喧嘩も知らないで犬の散歩途中だった母さんがたまたま通りかかって、イツキを見つけてくれたのだ。

 いつもの話だから、イツキにはこれからどんなやり取りがされるかすぐに分かった。

 次に母は、自分が見つけなかったらイツキは飢えて死んでいたと言う。そしたらイツキは、一晩ご飯を抜かしたぐらいじゃ死にはしないと返し、感謝が足りないと母が愚痴を言う。

「なんの話をしているの?」

 けれども三〇年近く繰り返している定番のやりとりは、母と手を繋いだ坊ちゃん刈りの子どもが会話に割り込んできておじゃんになった。

「イツキがね、昔ここで迷子になったってお話よ」

「ああ! 一〇歳の時の話ね!」

 がってんがってんと手を叩きながら、納得の様子を見せる子ども。昔、イツキも同じ仕草をよくやっていた。

「イツキはよく覚えているわねぇ」

 はつらつと言葉を返す子どもを、母は息子の名であるイツキと呼んだ。

 拡張現実連動チャットボット「グッドメモリー」。ひとり暮らしの大切な話し相手である彼を、母は幼い頃のイツキと瓜二つの姿に設定し、イツキと呼ぶ。

 拡張現実に映る自分の分身と母が会話を交わす様に最初は面食らったが、母の頭の中では息子のイツキとチャットボットのイツキははっきりと分別がついているようだった。

 母がイツキの分身を話し相手に招いたのは、一年前、飼っていた猫が死んだのがきっかけだ。

 柴犬のケンタは十七歳で大往生し、イツキは家を出て大阪へ、父は五〇歳でくも膜下出血で突然逝ってしまい、ひとり残された母の慰めとなっていたサバトラ猫のアリスも二〇を超えるまでは生きたけれど猫又と成るには至らなかった。

 拡張現実コンタクトレンズが蓄えた四〇年間の生活ログへのアクセスを求めるリクエストが母から来て、詐欺に騙されているのではと久しぶりに連絡を取ったとき、母は開口一番、イツキに連絡が行くとは思わなかったと謝罪した。

 また犬か猫でも飼えばいいと提案すると、また葬式をする羽目になるのは嫌だと元気なくつぶやかれてしまい、イツキは開示リクエストに許可を与えるほかなかった。

「あ、お母さん! そろそろ薬の時間じゃない?」

「あら、食事の時間はまだだけれども」

「病院で説明を受けたでしょ。母さんの薬は食間に飲む奴なんだから」

 チャットボットが母に薬の時間を知らせる。

 視界の隅に映る時刻はちょうど四時を示していた。イツキも医師の説明には同席していたけれども、母が地面の小さな起伏につまずかないか、夕暮れで冷えてきたから上着をもう一枚重ねたほうがいいのではと、他のことに気を取られていた。

「母さん、あそこにベンチがあるから」

 チャットボットと手を繋いでいない方の手を取り、母をベンチへと座らせる。

「えっと。これが薬箱よね」

 母がポーチを探り、お弁当箱サイズの丸みを帯びた薬箱を取り出す。

「その赤く光ってるボタンを押せばいいんだよ!」

「はいはい」

 チャットボットに催促されるがままにボタンを押すと、手前側の蓋が開き、緑の錠剤がひとつ出てきた。

「それが食間の薬! 夕食後に飲む奴は赤い薬だから一応注意しといてね!」

「最近の薬箱は賢いのねぇ」

 薬をつまもうと、母が右手を薬箱に近づけ親指と人差し指で小さな輪を作ると細かなモーター音がかすかに聞こえた。親指の第一関節を挟んだ上下にはめられた金属製の指輪、指輪と指輪を繋ぐ何十本もの細い線維が収縮して、親指を曲げる動作を手助けしている音だ。

 手術前は親指が外に大きくねじ曲がっていたのが、こうして手術で外筋肉が備わった装具をつけたおかげで以前のようにものを摘まめるようにもなった。

 もっと早くに病院に行っていれば薬で進行を抑えることもできたのに、イツキが母のリウマチに気付いたのは、久しぶりに帰省した大みそか、茹でたそばを取り分けようとした母が鍋ごとひっくりかえした時。もう取り返しのつかないぐらいに親指の関節が壊れた後だった。

 仕事に追われ盆にも帰省しなかった自分のせいだと思ったが、当の母は、おばあちゃんになれば腰が曲がったりと不調が出てくるのは当たり前で、手術もそんなみっともないものはつけたくないと頑なだった。

 薬だけはちゃんと飲んでもらおうと、どの薬が何錠取り出されたか分かるスマート薬箱を購入し、薬を飲み忘れているようだったらイツキが電話を掛けるようにしたのだが、次のお盆に実家に帰ると台所の下に何十もの薬が点々と落ちていて、薬を取り出したはいいもの冷蔵庫から水を取り出す間に薬を飲むのを忘れていたことが分かった。

 半年間の努力が無意味だったと気付き、スマート薬箱からの通知はオフにされた。

 それがチャットボットが母の生活に寄り添うことですべてが変わった。

 イツキと母、そして死んだ父の全生活史を訓練データとして学習されたイツキのように振る舞うチャットボット。けれども、チャットボットは言語・動作モデル構築に使われた訓練データの他にイツキも知らない医学書やガイドラインを外部ライブラリとして参照し、イツキの顔、イツキの声で、毎日母に語りかけることができる。

 薬を飲み忘れれば同居人として口うるさく指摘するし、物がつかみづらいとぼやけば一泊二日の手術ですぐに楽になるのになとその無垢な外見に見合った素朴さで手術を勧める。

 母がチャットボットの振る舞いに不快感を示し、そんなことはないと反論しても、チャットボットが参照している外部ライブラリは書き換わることなく、知識の出し方を多少変えて再び薬を飲むよう、手術を受けるよう促す。

そしてついにチャットボットは仕事に成功した。

 手術を受けたいから入退院の世話をしてくれないかと連絡が来た時は喜ぶと共になぜ考えが変わったのだろうかと不思議に思い、自分の幼いころの姿振る舞いで自分と同じ名で呼ばれるチャットボットのおかげだと気付いた時には、あの日自分の全生活史を開示する許可を出してよかったのだと思い直した。

「イツキ! お母さんに水あげて!」

 チャットボットに命令されなくても出そうとしていたところだ。

「はい。母さん」

 口うるさく急かすチャットボットには返事を返さず、ペットボトルの蓋を開け、母に手渡す。

「そろそろ日も暮れるから家に帰らないかい」

「でも体がなまってるから」

「イツキの言う通りだよ! リウマチは寒いと悪化しやすいんだから」

「そうねぇ。じゃあ橋まで行ったら、ね」

 杖を片手に、もう片手をチャットボットの実体のない手にあずけ、母が腰をあげる。

 息子の意見には従ってくれなくても、チャットボットの説得なら聞いてくれるのならそれはいいことだ。

 退院前、医師は母の状態がよくなっていると褒めた。

毎日の血圧や体重の測定も欠かさずやってくれるようになったから、高血圧の薬の調整もしやすくなったと。

 人手不足の今の時代、介護認定を出しても訪問介護の枠に入るのも難しいから、服薬管理をきちんとしてもらって、関節破壊が膝や足首に及ぶことなく、長い間ADLを保って健康に自活してくれるのは、主治医としても嬉しいものですと。

 お別れも言えずに突然逝ってしまった父を思えば、緩やかな下り坂を降りる母の姿は理想的な老後の在り方なのだろう。

「ほら、あの橋よ」

 いつものペースならもう橋に付いているぐらいの時間をかけた後、ようやく目的地の橋が母の老眼の視界に入った。

 父と喧嘩した日。どこに行く当てもなく、むやみやたらに歩き回った末にたどり着いた大きな橋。疲れ切って橋脚のコンクリートの地べたに座り込むとお尻から体温が全部吸い取られるように冷たくて、上を走る車が響かせる爆音が振動と共に体を揺らして、自分という存在がなんて頼りないものだろうと感じたのを覚えている。

 気が付けば日も暮れて、帰り道も分からなくて、涙が自然とあふれてきて、それが無性に腹立って、寒くて鼻水が出ているだけだと嘘をついてこらえていたら、突然「イツキじゃないの」と母に声を掛けられ、ケンタにじゃれつかれた時の、あの暖かな瞬間を今でも覚えている。

「覚えている! 覚えている!」

 けれどもイツキよりも先に、チャットボットが言葉を返した。

「お母さんと喧嘩して家出しちゃって、突然の大雨で帰れなくなって、この橋の下で泣いていたら、お母さんが探しに来てくれたんだよね!」

「イツキはよく覚えているわねぇ」

「お母さん何度もこの話するからさ」

「あの時は本当、慌てたわぁ」

 違う。

 あの日喧嘩したのは母ではなく父で。雨どころか雲ひとつない冬晴れで。母さんは探し回ったわけではなく、ただケンタの散歩途中で出くわしただけで。

 自分を捨て置いて、塗り替えられた過去で盛り上がるふたりに、それは違うと、声に出して主張したくなったけれども、イツキは口を開いただけで、すぐに閉じてしまった。

 チャットボットの目的は、人々の心地よい話し相手になることだ。イツキの振る舞いを真似るのはその手段に過ぎない。母の健康に関わる薬や手術の是非は、どのようなフィードバックが行われても外部ライブラリとして強固に保たれるけれど、家族の過去はそうではない。

 母が昔話を自分が思い出したいように作り替えても、チャットボットはそれを訂正しない。

 なぜなら彼の目的は、日々の瑣事に追われ、ペットの代わりに自分が話し相手になるからとも提案しない息子の代わりに老後のさみしさを紛らわすことだから。

 なぜ、母の思い出から死んでしまった父と犬が消えてしまったのか。

 なぜ、たまたま迷子の息子に出くわした笑い話が必死で息子を探した善き思い出に書き換わったのか。

 その理由を考えると、イツキはもうなにも言うことはできなかった。

 橋上に並ぶ街灯に明かりが灯った。川面が光の連なりを反射し、光の筋が二本浮き上がる。

 イツキの目にはどちらの光が本物なのか区別がつかなかった。

 来た道を戻ろうと後ろを振り返るけれど、街灯もない河川敷にあるのは暗闇だけ。

 帰り道は見つからない。

 見つけてくれる人も。

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