プロローグ 月魄の踊り子 ②

 カァァ……ン

 

 カァァァ……ン

 

 カァァァァ……ン


 あの日も、夕刻の鐘は鳴っていた。

 子守り歌みたいな間延びした音色が、暮れなずむ砂の都に「夜」を届けてくれる。


 大砂漠の王政都市「マーハ」。


 テブリス河のほとりに栄えてきた古都であり、大陸各地からキャラバンが押し寄せる交易の一大拠点。

 ひさしを広げた市場バザールが大通りをにぎわせ、行き交う人々に露天商が売り声を飛ばす。店先の敷き物に並ぶのは、ラクダに揺られた茶葉に香辛料、質のいい陶磁器やガラス細工、見事なアラベスクを織りなす絹の絨毯などなど。流れ者の琵琶ウードがよく似合う、素朴で華やかな砂漠の都だ。

 そして、円い盾のように展開した街並みの中心に、王家がすまう白亜の大宮殿――――「金纏こんてんきゅう」がある。


 ああ、そうだ、あの夜も。

 金纏宮の大ドーム————その真下では、盛大な宴が開かれていた。


「ザヒードの恩寵があらんことを!」

「「「あらんことを!」」」

 カララァァァン! つのの形をした銀製のカップが盛大に打ち鳴らされた。

 にぎやかな酒宴だった。抜けるように高く、宮殿内とは思えないほど開放的で広々とした迎賓広間。フロアの中央を取りまくように絨毯が並び、その一枚一枚が招待客に用意された宴席。列席する顔ぶれも錚々たるもので、権勢をふるう大臣や上級官、万人隊をあずかる将軍、王家に従属する名門氏族の長たち。絹布のカフタンをゆったり纏い、袖口には金の腕輪を光らせている。

 そして、弓形に並べられた絨毯席の頂点。

 王家のシンボルである大蛇の刺繍された赤絨毯に、もの静かな男性が一人。


「………………。」


 第十二代マーハ国王、ドゥラーン=セム=ザヒード。

 短く整えられた口髭くちひげ、歴戦の勇者さながらの凛々しい顔立ち。三十路とは思えないほどの威厳に満ち、ある一点を除けば・・・・・・・・、誰から見ても大砂漠の王として申し分ない。


「ええ……それでは皆様方、お目をあちらに」

 宴の司会役が手を差しのべた。

 迎賓広間の中央、フロアより一段高く造られた円形の大舞台。壇上を隠すように羅紗布のカーテンが吊られている。

「今宵の演目は、『夕闇の蝶マサ・ファラーシャ』にございます」


 カーテンが落ち、きらびやかに衆目を浴びる。


 緋色のベロアを纏い、まばゆい鱗のような金細工を散りばめ、それら一切を霞ませる美貌。

「お、おおおおおおお……! これは……!」

 息をのむ音、生唾をのむ音。

 百を超える燭台に照らされ、競うように花々が咲き誇る。


 べん…ッ! 壇下で奏でられる琵琶ウードの音色で、一夜の舞台が幕を開ける。


 なめらかに足裏が滑り、歌うように足輪飾りコルカールの鈴をゆらす。指輪から泳ぐのは珊瑚色のヴェール。霧のように姿を包み、しなやかな手さばきで波をうつ。

 くびれた腰をゆったり回し、両肩をふるわせて色香を振りまく。


 踊り子。

 酒宴を華やげることを職務とする、王宮お召し抱えの上級女官アーラ・カルファ。その麗しさは「砂漠の至宝」として大陸の果てまで知れ渡り、ひと目見るだけでも郷里で自慢話に困らない。

 ただ、実際のところ「舞台芸」を愛でる客は一握り。なまめかしい腰つき、あらわな琥珀色の肌ばかりが衆目のまとだった。

「ほほぉ……これは何とも」

「いやはや。しかし伝統とはいえ、陛下には少々似つかわしからぬ趣ですなぁ?」

 それでも舞台に向けられる熱は増し、「夕闇の蝶マサ・ファラーシャ」は山場を迎える。


 しかし。

 色めいた熱狂をよそに、宴の主であるドゥラーン国王は一人、空きかけの酒杯を揺らしていた。

 うつむき、静かに。

 塞がらない傷を癒やすように、琵琶ウードの調べだけに耳を――――

 

「そこに直れ、下女めがッ!」

 バリィィンッッ! 陶器の砕け散る断末魔。


 水を打ったように場が静まる。見れば、国王からは少し遠い絨毯席で、赤ターバンの男が眉を逆立てていた。

「このアラマドを差し置いて、そこの小僧に肉を分けたな……!? 氏の序列も知らんのかッ⁉ 下女のしつけはどうなっているッ!」

 赤ターバンが睨みつける先に、まだ若手らしい政務官が一人いた。彼の皿には仔羊肉の香草焼きが一切れ。切り分けをした下級女官ターフ・カルファは、足もとに器を投げられて涙目で腰を抜かした。

 下級女官ターフ・カルファに落ち度はない。政務官と赤ターバンに与えられた席は、国王のいる中央から両翼にそれぞれ六番目。少なくとも今夜のところは同等で、どちらへ先に配膳しようと無礼はない。

 しかし彼女の行為は、すでに酒壺一つほど飲み干していた小心者・・・の逆鱗に触れてしまった。


「…………アラマド卿。父祖も照覧である。どうか広き心を」


 沈黙を破ったのは他でもない、ドゥラーン国王だった。優しくも威厳あふれる声に、隠しきれない嘆きの色がある。

「その下女が裸で詫びれば済むことだ! それと酒だ! いつまで客の杯を乾かすつもりだ⁉」

 アラマドが喚き散らすと、国王の近習たちも辛抱を切らした。

「心得るのは貴様だ、アラマド=カカム! 貴様はなぁ……! 亡きディエラ王妃殿下の兄であると、それだけで宮殿の門を通されておるに過ぎんのだぞ!」

「そうとも、ディエラ様も常々嘆いておられたわ! 袖の下をせびるのに飽き足らず、あろうことか陛下の慈しみに付け込み、下賜をねだる始末……! 恥を知れ! 貴様のごとき愚物、下女とて詫びるに値せぬわ!」

 しかし、アラマドは下々の雑言・・・・・には耳を貸さない。病人じみて血走った目は、ただ一人の男を映している。


「ドゥラーンよ。我が妹ディエラへの恩義、よもや忘るまいな?」


 にちゃり……と、アラマドが金銀まじりの歯列を見せる。

「博愛の王、慈愛の王と呼ばれながら、その齢になるまで愛妾めかけの一人も取らずじまい。ディエラのはらが世継ぎをこさえておらねば、始祖ザヒードの血統も絶えておったろう」

「………………。」

「よいよい。世継ぎなど一人おれば事足りるわ。慈愛の王よ。よもや今さら傾国の火種を起こそうとは思うまい?」


 王妃ディエラ=カカムの崩御から約三年。それまでの横暴のツケを払わされ、凋落の一途をたどるカカム家。かつて宮廷の至るところに蔓延はびこらせた根は、それを疎んじた者たちの手で一掃されていた。

 勢いも官職もズタボロに削ぎ落とされ、残されたのは「王家の外戚」という肩書きのみ。その肩書きだけは今後とも唯一無二であると、アラマドは盲信せずにはいられなかった。


(…………負け犬の見苦しいことよ。どうする。我らも義憤を演じるか?)

(いや待て。いい機会だ。王の御心を聞けるかも知れん)


 列席している他の氏族長たちは静観を決めこんだ。

 ドゥラーンは後宮ハレムを持たない異例の国王。彼が新たな王妃を迎えるかは最大の関心事だった。どこの氏族も、蝶よ花よと育てておいた娘を一人二人は抱えている。


「…………蜜であった」


 しばらくの沈黙の後、ドゥラーンは口を開いた。

「妻を…………ディエラを見初め、ともに過ごした一時は、余にとって一匙の蜜であった。蜜が薄まるのを惜しむあまり、王家代々の後宮ハレムを空き家としてまで、凡百の夫と同じように妻一人を愛した。…………心得てはおった。王たる行いではないとな」

 一夫多妻が許された砂の国でも、一途な愛はもちろん美徳に違いない――――が、超大国の主となれば話は違う。従属させた氏族から寵姫ちょうきを迎えるのは当然で、責務でもあった。

「おおお、なんと大層な惚れぶりではないか。ならば……」


「ゆえに同じ愚は犯さぬ」


 胃の底を抜くほどの声の重みに、場にいた誰もが息を詰まらせた。

「余は一国の差配者である。報いるべき者に報い、国家に尽くす者にこそ尽くす。そこなる者は、未だ禍根のある西方諸国との橋渡しを見事に成し遂げた一人。今宵の席に招いたのは、余である」

 ドゥラーンは、そこで言葉を切った。

 饒舌になる自分を感じた。聞くも情けない、不貞腐れのような一言が、腹の底から這い出る前に。


(人を愛することは…………終生、ない)


 ぐっ……と。

 尖った杯の底に残っていた酒をあおり、ドゥラーンは呟いた。

「…………深酒をした。寝覚めには忘れておろう」

 それは、あまりにも寛大な一言だった。

 糸が切れたように空気が緩んでいく。聞き耳を立てていた者は肩をすくめ、壇上の踊り子たちも顔を見合わせて安堵した。節操のない客は、さっそく台座に置いた飲みかけの角杯に手をのばす。

「…………………………まで…………」

 ただ一人。

 義弟おとうとの温情に救われたアラマドは、うつむいたまま肩を震わせ—―――



「…………どこまでコケにすれば気が済むのだッッ!」

 突如、隠し持っていた獅尾刀シャムシールを抜いた。



「いやあああああああああああああぁぁぁぁああぁぁッッ!」

 女官カルファの一人が喚いた。空気が再び一変し、酒宴は大混乱に陥っていく。

 あわを食って逃げ出す客人や女官カルファたち。必死に出口を探そうとするが、下階に降りられる階段は運悪くアラマドの方向にあった。行き場を失った者が逃げまどい、置かれた燭台が次々に蹴り倒される。

 明かりを失い、迎賓広間が夜の闇に呑まれていく。

「うそ、うそうそうそ……っ⁉」

「何してるの⁉ はやく舞台裏に!」

 踊り子たちが青ざめ、我先にと舞台から逃げ去った。


 アラマドが料理の皿を蹴散らし、抜刀したまま突き進む。同席していたカカム家の縁者たちは、アラマドを制止するどころか自らも刀剣を手にし、抵抗する者に切っ先を向けた。

「ひ、控えんか貴様ら! 宮中であるぞ!」

「やかましい! 今日までカカムの名を軽んじた報いと思え!」

 武官たちが応戦を試みるが、帯刀していた人数はアラマド側と大差ない。さらに事態は悪化していく。燭台や銀食器のナイフを手にして迫る列席者がいたのだ。その思惑は様々あり、アラマドを討って恩賞をねらう者、アラマドに加勢する者、どさくさで因縁の相手を亡き者にしようとする者。金物をすり合わせる音が、闇の中、逃げまどう人々の恐怖に拍車をかける。


 阿鼻叫喚の最中、ドゥラーンは腰帯に忍ばせた牙剣ハンジャルに手を触れる。


 自ら刃を振るい、反逆者アラマドを誅殺する。刃渡りは獅尾刀シャムシールの半分にも満たないが、ドゥラーンほどの剣の名手ならば不可能ではない。しかし、柄をとる指は鈍り、舌の根はヒリヒリと乾いた。

 差配者としての役割。

 今しがた、それを語ったばかりだと言うのに。


「………………許せ、ディエラ」


 それでも、彼は決断した。牙剣ハンジャルを抜き払い、亡き妻の肉親に向かって応戦の構えを取る。

 目を血走らせたアラマドが迫り、ついに互いの間合いを割った。

「なにが始祖の血! 驕りを知るがいい、ドゥラーンッッ!」

「…………ッ!」

 湾曲した刃に、閃光。

 高々と振りかざした獅尾刀シャムシールが、素っ首をめがけ猛然と――――








 ――――――――しゃん



 何かが鳴った。

 涼やかで、限りなく透明な、澄みきった音色。


 ふと、ドゥラーンは見た。

 臣下も、逃げ惑う群衆も、怒り狂うアラマドまでもが目を向けた。


 ――――――――しゃしゃん、と続けて鳴った。


 ドームの眼窓オクルスから降る月明かり。

 照らされるは天頂の下、円形の大舞台。とうに演者が失せたはずの場所に、人影があった。


 純白のシルクを纏う、一人の踊り子。


 宴の舞台にいた踊り子の誰でもない。研ぎ澄まされた肢体は細く、華奢で、それでいて凛々しく。


 ついの手を翼にして、廻り出す。


 虚空をなぞる十の爪。あるはずのない幻影のヴェールが湧き、紫煙のように漂う。なめらかな軌跡を残し、数百の瞳をカンヴァスに変えていく。

 たった一人の壇上に、月下の雲海があらわれる。


「……………なんだ…………あれは」


 つま先をしずかに滑らせ、月輪のシュプールを幾重も描く。

 音もなく摩擦もなく、大地の呪縛すら解かれたステップ。止まったと思えばフイと消え、とらえどころなく流々と舞い遊ぶ。

 どこまでも優美で、儚く、そして晴れやかで。


 べん――――……と音が鳴った。

 物陰に逃げていた弾き手の女官カルファが、知らず知らずに琵琶ウードをつまびき、「その曲」を奏でていた。

 見えざる何かに導かれるように、縦笛ネイが、百弦琴サントゥールが、次々と加わっていく。

 

「……………………マハ・ラーナ」

 誰ともなく、その言葉を呟いた。


 演目名「月に乞うマハ・ラーナ

 古い儀典にのみ名を残す、月の女神に奉納された神前舞踊。

 夜空に浮かぶような天衣無縫のステップ。才覚に恵まれた踊り子が、研鑽十年の果てに至りうるというついの境地。習得の難しさのあまり継承の絶えかけた、原初にして至高の踊りシャルキィ


 観る者をすべからく幻惑し、感嘆以外の心を失わせる。


「ああ…………、あぁ…………!」

 気づけば、そこには観客しかいなかった。

 逃げる者も、凶刃を握る者も。迎賓広間にひしめく数百人が、たった一人の踊り子に心を奪われた。怒りも欲も、魂すらも抜かれ、陶然と立ち尽くす。


 踊り子は、雲海のなかで舞い続けた。

 ヴェールの向こうに、吸い込まれるような瑠璃色が見える。


「………………きれい………!」


 あの瞳に誘われている。そう思った。

 舞台奥に垂れさがるカーテンの間から、小さな小さな手をのばす。


 そう。

 そうだ、あの夜。


 たった一度の踊りシャルキィが――――――わたしを、取り返しがつかないくらいに狂わせてくれた。

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