星穹のラクスシャルキ

くるまえび

プロローグ 月魄の踊り子 ①

 とろぉん……と。

 甘ったるい麝香ムスクでも嗅がされたような陶酔の面持ちで、サフィは息をついた。


「………………きれいだったなぁ……」


 うるめいて霞む、鏡のような灰銀の瞳。

 灼熱をはねつける琥珀の肌と、うなじを隠す程度に切られた黒曜の髪。みすぼらしいが風通しのいい、亜麻の一枚着。

 似たような風貌をした女官カルファが十人ばかり、洗い場のすみの日陰をにぎわせていた。談笑半分、いや七割そこそこに精を出す同僚たち。その傍らで、サフィの手は完全に止まっていた。下穿きシャルワールを泳がせていた指をつたい、ぽたぽたと陶器のタライに雫が落ちる。


 昼下がりの仕事中、ちょっとした物思いにふける女官カルファは珍しくもない。

 ラピスラズリを一面に溶かした紺碧の海。一時期さんざん読み回された、魔人ジンと姫君の切ない恋。

 あるいは――――見かければ流星のごとく目を奪う、さる貴公子・・・・・の横顔を。


 四方を見晴るかす砂漠の国でありながら、マーハの王宮暮らしは飢えや渇きとは縁遠い。日々の労働こそあれ、王宮の女官カルファは恵まれている。恵まれているから刺激に飢える。


 どっぷり妄想し、内輪で語らう。こんなに心を潤わせる娯楽もなかった。


 庭園で葉をのばすナツメヤシの下で、奥まった刺繍部屋で、昼食のラバシュをあぶる粘土窯のそばで。妄想ごてごての艶聞醜聞うわさばなしが、日に一つは産まれ、語られ、消費されていく。


 ただ、サフィは少し違う。

 十六歳になる少女を惑わせ、白昼夢に誘うもの。

 それは、まだ見ぬ海でも物語でも――――目を奪われた異性・・でもない。


 洗い場に戻ってきた二人の女官カルファが、日陰に入るなり異変に気づいた。

「あれ? サフィ? サフィってば」

「…………昨日から三度目かしら。世話の焼けるお嬢様ねぇ」

 あどけない顔立ちの女官カルファが駆けだし、ぱたぱたと素足で近づく。

 名前を呼び、肩をゆすり、袖のない一枚着をぐいぐい引っぱる…………が、返事はない。

「ネフリム、どうしよう…………連帯責任?」

「…………意外とシビアよね、あなた」

 大人っぽい雰囲気の女官カルファは苦笑いすると、ひと抱えもある水甕みずがめを地面に下ろした。

「マルシャ、ここに汲みたて冷え冷えの井戸水があるわね?」

「………………また汲んでくるのぉ?」

「ふふっ、まあ見てなさいな」

 

 サフィは一人、抜けるような南の空を眺めていた。

 雲一つない蒼穹を押しあげるのは、オパールの塊を彫刻したような白亜の大宮殿。とめどない灼熱の輝きを、黄金の大ドームが飛沫しぶきにして散らせている。


 ぴん――――…… 瞳の奥に、また一滴が飛びこんだ。



「もう一度見たいなぁ………………王妃様」

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