星穹のラクスシャルキ
くるまえび
プロローグ
「綺麗だったなぁ…………」
とろぉん、と。
濃いめの
昼下がりの勤務中、ちょっと物思いにふける
七つの砂漠を越えた先にあるという青い海を。
幼い日に読み聞かされた
あるいは、蜂蜜より甘ったるい恋の話を――――夢に見る。
王宮という
庭園に植えられたナツメヤシの木陰で、奥まった刺繍部屋で、
でも、サフィは少し違う。
十六歳になる
物干し場から戻ってきた
「あれ? サフィ、サフィってば」
「…………昨日から二度目かしら。世話の焼けるお嬢様ねぇ」
声をかけ、肩を叩き、袖のない
「…………どうするの、ネフリム?」
「マルシャ、ここに汲みたて冷え冷えの井戸水があるわね?」
サフィは、日の当たらない宿舎の壁にもたれて座っていた。
雲一つない炎天の下、
「もう一度見たいなぁ…………王妃様」
カァァ……ン
カァァァ……ン
カァァァァ……ン
あの日も、夕刻の鐘は鳴っていた。
子守歌のような間延びした音色が、お待ちかねの「夜」を届けてくれる。
大砂漠に浮かぶ巨島——————王政都市マーハ。
テブリス河のほとりに栄えてきた古都であり、大陸各地からキャラバンがやってくる交易の街だ。
街の大通りは、ひさしを広げた
そして、円い盾のように広がる市街地の中心に、王族がすまう大宮殿――――「
城門をくぐると、まず迎えるのは各地の属領から取り寄せられた花種――――アネモネやスミレ、ラナンキュラスが乱れ咲く大庭園。庭池は清らかな水をたたえ、その水面に、どっしり奥に横たわる中央正殿が映りこんでいる。見事なシンメトリーになった真珠色の殿堂と、黄金の
そう、あの夜。
ドームの真下————つまり最上階では、華やかな夜宴が開かれていた。
「それでは皆様方…………ザヒードの
「あらんことを!」
角の形をした銀製のカップが、カララァァン!と盛大な音を立てた。
にぎやかな宴だった。広々とした
列席者の顔ぶれは
堅苦しい挨拶も終わり、次々と運ばれてくる宮廷料理に
そして、迎賓広間の奥――――ひときわ
マーハ当代国王、ドゥラーン=セム=ザヒード。
「それでは皆様、お目をちょうだいませ」
少し経って、宴の司会が手を差しのべた。
迎賓広間の中央に、一段高く造られた円形の舞台。その壇上を隠すように垂れ幕がかかっている。
「今宵の演目は、『
さっと幕が引かれ――――きらびやかな女性たちが衆目を浴びる。
緋色のシルクを
「お、おおおおおおお……! これは……!」
悩ましげな目配せをして――――蝶が舞う。
品のいい
指輪に結ばれたヴェールを泳がせ、色気のある肉体が神秘のオーラを帯びていく。跳ねればアンクレットの鈴が鳴り、音色がなんとも心地良い。
踊り子。
宴を華やげることを職務とする、王宮お抱えの
ただ実際のところ、舞台芸として愛でる客は一握り。なまめかしい腰つき、露わな小麦色の肌ばかりが衆目の的だった。
「ほほぉ…………これは何とも」
「いやはや。しかし伝統の舞とはいえ、
それでも舞台に注がれる視線は熱をおび、ついに「
そんな熱狂をよそに、宴の主であるドゥラーン国王は一人、酒杯を揺らしていた。
うつむき、静かに。
満たされない何かを紛らすように、
「そこに直れ、
ガシァァンッ! 何かが砕け散る異音。水を打ったように場が静まった。
絨毯席の一つで、赤ターバンの中年男が
「このアラマドを差し置いて、今、その若造に肉を分けたな……!? 氏の序列も知らんのか⁉ 下女の
赤ターバンが睨めつける先に、一人の若い政務官が座っていた。その皿には配膳されたばかりの羊肉のカバブが一切れ。足元に皿を投げつけられた
赤ターバンと若い政務官は、中央の国王をはさんで左と右へ、それぞれ三番目の席にある。つまり席順としては同格で、その
しん……と居心地の悪い沈黙があった。酒宴の客は酔いが
誰もが口を開くことを躊躇い、大ドームの下に静けさが満ちる。
「…………アラマド卿。父祖も照覧である。どうか
それを破ったのは、他ならぬドゥラーン国王だった。
「その下女が裸で
アラマドが
「…………心得るのは貴様だ、アラマド=カカム! 貴様はなぁ……! 亡きディエラ王妃殿下の
「そうとも、ディエラ様も
しかし、アラマドは耳を貸さなかった。
最奥の絨毯にたたずむ国王ドゥラーンに、充血した目を向ける。
「ドゥラーンよ。我が妹ディエラへの恩義、よもや忘るまいな?」
にちゃり……と、アラマドが金歯をのぞかせた。
「元から『男』が足らんのか知らんが、その歳になるまで
アラマドは、酒の勢いも借りて挑発的に笑った。
「だが良い。世継ぎなど一人おれば十二分だ。それとも何だ? 残っているのか? 後妻をめとり、産ませるだけの『男』が」
「……………ッ!」
ドゥラーン国王を敬愛してやまない臣下が、
王妃ディエラ=カカムの
一方で、他の氏族長たちは静観を決めこんだ。ドゥラーンは
「
「…………あん?」
返答になっていない返答に、アラマドが思わず眉をひそめる。
「妻と…………ディエラと出会い、過ごした
この砂漠世界でも、一途な愛というのは美徳に違いない…………が、大国マーハの
「おお……なんと、大層な
「ゆえに同じ愚は犯さぬ」
腹の底が落ちるような声の重みに、場にいた誰もが身を縮めた。
「余はマーハの差配者である。この国に身命を捧ぐ者にこそ報い、尊び、
引き合いに出された政務官は、干し魚のように身を縮めていた。彼は生まれこそ名門カカム家に及ばないが、その頭脳と誠実さで外交参謀に引き立てられた人物。この席に座ることに少しの不足もない傑物だ。
ぐい……っと。
角杯の底に残っていた酒をあおると、ドゥラーンは呟いた。
「…………深酒をした。寝覚めには忘れておろう」
それは、あまりにも寛大な一言だった。
糸が切れたように空気が緩んでいく。耳をそばだてた者は肩をすくめ、舞台の踊り子たちも顔を見合わせてホッと息をつく。節操のない客は、さっそく台に置いた酒杯に手をのばした。
「…………………………まで…………」
ただ一人。
「…………どこまでコケにすれば気が済むのだッッ!」
突如、隠し持っていた
「いやあああああああああああああぁぁぁぁああぁぁッッ!」
あわを食って逃げ出す客人や
明かりを失い、迎賓広間が夜の闇へと呑まれていく。
「う、うそうそうそ……ッ⁉」
「何してるの⁉ はやく舞台裏に!」
踊り子たちが青ざめ、我先にと舞台から逃げ去った。
アラマドが料理の皿を蹴散らし、抜刀したまま突き進む。同席していたカカム家の縁者たちは、アラマドを制止するどころか自らも刀剣を手にし、抵抗する者に切っ先を向けた。
「ひ、控えんか貴様ら! 宮中であるぞ!」
「やかましいッ! 今日までカカムの名を軽んじた報いと思え!」
武官たちが応戦を試みるが、帯刀していた人数はアラマド側と大差ない。
さらに悪いことに、混乱の最中、燭台や食器を手にして迫りくる列席者がいた。その思惑は様々で、アラマドを倒して
阿鼻叫喚の中、ドゥラーンは腰帯に忍ばせた
自らの手で
差配者としての役割。
今しがた、それを語ったばかりだと言うのに。
「………………許せ、ディエラ」
それでも、英君は決断した。
目を血走らせたアラマドが迫り、ついに間合いの内側に踏み入る。
「なにが始祖の血!
湾曲した刃をつたう閃光。
高々と振りかざした
――――――――しゃん
何かが鳴った。
涼やかで、限りなく透明な、澄みきった音色。
ふと、ドゥラーンは見た。
臣下も、逃げ惑う群衆も、怒り狂うアラマドまでもが目を向けた。
――――――――しゃしゃん、と続けて鳴った。
ドームの
照らされるは天頂の下——————円形の大舞台。
とうに演者が逃げ失せたはずの場所に、一人の影があった。
純白のシルクを
さっきまで舞台にいた踊り子の誰でもない。
肢体のシルエットは細く、
虚空をなぞる十の指先が、なめらかな軌跡を残していく。
あるはずのないヴェールの幻影が湧き、湖面の霧のように漂う。舞台にたゆたう残像が、そこを月下の雲海へと変えていく。
「……………なんだ…………あれは」
つま先を
音もなく摩擦もなく、大地の呪縛すら解かれた足運び。止まったと思えばフイと消え、とらえどころなく流々と舞い遊ぶ。
どこまでも優美で、儚く、そして晴れやかで。
べん――――――と音が鳴った。
不可視の何かに導かれるように、
「……………………ルナ・カーラ」
誰からともなく、その言葉を呟いた。
演目名「
古い儀典に名を残す、月の女神に奉納された神前舞踊。
夜空へ浮かぶような天衣無縫のステップ。それは、天賦の才をもつ踊り子が、十年もの研鑽の果てに至るという
継承すら絶えかけた孤高の
観る者をすべからく
「ああ…………、あぁ…………!」
気づけば、そこには観客しかいなかった。
逃げる者はない。凶刃を握る者もない。迎賓広間にひしめく数百人が、たった一人の踊り子に心を奪われた。
怒り、欲、魂すらも抜かれたように
踊り子は、なおも雲海のなかで舞い続けた。
ヴェールの向こうに、吸いこむような瑠璃色をのぞかせて。
「………………きれい………」
あの瞳に誘われている。そう思った。
舞台奥に垂れさがるカーテンの間から、小さな手を伸ばす。
そう、あの夜。
たった一度の
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