人語を解する道具 ②

 右の頬をぶたれたジュニが、畑の土に倒れこむ。


「いッ…………!」

 そのまま二度三度、鞭がしなって空を裂いた。痛ましい音が、炎天下の灼けついた大気に響く。

 その時、シドルクは一度だけジュニを振り返った。しかし足は止めず、四個の大物を担いだまま荷車に向かう。

「午後は袋詰めだけをやれッ! いいなッ⁉」

 そう吐き捨て、ヒマールは歩き去っていく。

 少しして、荷車から戻ったシドルクが歩み寄った。

「…………こぼした土を集めておくんだ。あとで俺が運ぶ」

「了解っす。…………やっぱ早かったすね、俺には」

 何事もなかったように言葉を交わす二人。たった今の鞭打ちについて少しも気にかける様子がない。


 やがて、監督役のヒマールが昼休みを宣言した。

 緊張が解かれ、飲み水の大甕おおがめが置かれている場所に奴隷たちが集まっていく。

 サフィは遠巻きに様子を見ていたが、やがて奴隷の一人に発見され、かごを持っていかれた。匂いを嗅ぎつけた奴隷たちがバルバリを次々に引っつかんでいく。

「ああぁ、うめえ…………うめえよ……!」

「肉だ……! いつぶりだよ、肉なんてよぉ!」

 涙を流してバルバリをほおばる奴隷たち。サフィは突っ立ったまま、その歓喜の様子をながめていた。

 サフィにとっては雪辱を期した一品。ただ彼らの食いつきぶりは、昨夜の砂まじりと大して変わらない。嬉しいは嬉しいが複雑な心境だった。


「美味い」

「ひぇ……っ⁉」


 いつの間にか、すぐそばに積まれた土袋にシドルクが座っていた。

 硬めのバルバリを噛むたび、尖った喉仏が上下する。その横顔は、やっぱり感情が読めないものの、昨日より少しだけ緩んだように見えなくもない。

 サフィは黙って、シドルクの次の言葉を期待していた。しかし「美味い」で講評は終わりらしく、そのまま最後の一口を食べ切られてしまう。

「ね、ねえシドルク……!」

「ん?」

 思わず話しかけてしまった。けれど「他に感想は?」と言うのは流石にはばかられ、代わりに別の質問が飛び出した。

「…………ジュニのこと、心配しないの?」

「…………?」

「だ、だって、あんなに仲良いのにさ…………目の前で、あんなことされても…………止めなかったし」

 さっきの一部始終を見ていたと打ち明ける。当のジュニの姿は辺りには見えない。

 シドルクは「問いの意味が分からない」という顔をしたが、ややあって口を開いた。


「あれは打たれても仕方ない」

「は、はああぁっ⁉」


 思わず眉を逆立てるサフィ。

 シドルクはサフィの怒気に一瞬だけ眉を動かしたが、あくまで淡々と言葉を紡いだ。

「…………俺たちは道具だ。無駄なく使わないといけない。ジュニは今朝、向いてない土運びをやると自分で言い出して、失敗した。ヒマールは見過ごせない」

 ジュニよりも鞭の男、ヒマールの肩をもつ。サフィにとって完全に予想外だった。

 しかし、そこ以上にサフィを動揺させたのは――――


「ど…………道具って」

「奴隷は『耳のある道具』だ。少なくとも、この国では」


 サフィは少しも承服できない。だが、シドルクが嘘や誇張をするような人間じゃないのは理解していた。

「で、でも、ジュニは頑張ってたでしょ! あんな小さいのに、あんなに……!」

 サフィの目には、ジュニと年頃の近いマルシャが重なっていた。ジュニの扱いばかりでなく、それを気に留めないシドルクの態度がまた、サフィの神経を逆撫でする。

「おかしいよ……! あのヒマールって人、それは偉いんだろうけどさ……! でも、一生懸命やってる子をあんな風に……!」

「…………ああ。いや、違う」

 シドルクの目線の先には、畑のすみに停められた荷車に腰をおろす痩せ男がいる。

「ヒマールは偉くない。あいつも奴隷だ」

「…………えっ」

 予想外の答えに水をかけられ、サフィが少し平静を取りもどす。

 目を凝らすと、ヒマールの右手首には特徴的な入れ墨が見える。シドルクやジュニにも刻まれている奴隷の身分証、「野火のびしるし」だ。

「あいつは俺たちを動かすのが仕事だ。仕事が違うだけで奴隷なのは同じだ」

「で、でも昨夜ゆうべは、あんな人…………」

「夜になるとあるじの屋敷で働いてる。帳簿つけや道具の手入れも全部ヒマールがやってる」

 淡々と話すものの、その口調には敬意のようなものがあった。

「奴隷のあるじは仕事場に来たりしない。ここで働いて一年、顔を見たこともない」

「雇い主なのに?」

「雇い主としての仕事も全部、奴隷あいつに任せてるんだ」

 奴隷を鞭打つという労働。うだるような酷暑の中、塩をふいた畑に足を運ぶという苦痛。

 そんな面倒すらも奴隷にやらせ、噴水つきの庭園で涼みながら愛妾めかけと過ごす。成り上がりの大商人とはそういうものだ。


「…………でも……さっきのは別に、叩くこと……」

 サフィの怒りは下火になっていた。それでもまだ、あの鋭い響きが耳に残っている。

「あの音はたぶん、当ててない」

「…………当ててない?」

 当たってない、ではなく、当ててない。サフィが顔を上げると、向こうで他の少年奴隷と話をしているジュニがいた。右の頬が少しだけ赤いが、さっき鞭を打たれたあとは見えない。

「振り方が上手いと当てなくても鞭は鳴る。ヒマールは特に上手い。本当に打ったのは最初の平手だけだ」

「そっか…………」

 打てば売り値も下がるからな、とシドルクは付け加えた。

 サフィは、手元に残ったバルバリを見つめた。もぐ……と一口食べてみる。今回はちゃんと味見していたので、特別驚くようなことはない。

 

 食べかけをひざに置くと、サフィはシドルクの背中を見つめた。

 太陽に炙られてきた浅黒い肌。無数に混じりあって数えることもできない傷痕。もう塞がっているが、稲妻が走ったような一本傷がある。

 振り方が上手いと―――———と、シドルクは言っていた。


 気づけば、その背中をそっと撫でていた。

 ざら……とした手触り。大きな傷痕を避けているので本人は痛みを感じないが、むしろ触っている方が痛みを錯覚してしまう。

「…………? どうした?」

「あっ……! ごめん、なんでもない」

 体に触っていた手を離し、残っていたバルバリを手早く食べる。


 会心の出来だったはずの一品は、とても贅沢な味がした。

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