誰もいない街で ③

 サフィは歩き出した。

 あてもなく、幽鬼のように。すべての始まりである「王の額」を見つめ、物思いにふける。

 これから一体、どうしたら。


 ――――今からでも出頭する?


 あの目覚めた日なら、まだ脱走の罪だけで済んだかも知れない。でも今は違う。ここまでの四日間、脱走を「続けた」罪は、おそらく元の罪よりも重い。「職位の永久剥奪」は決定的で、もう免れない。


 ――――このまま、本当に逃げちゃえば?


 巡邏兵がぞろぞろいる街で、そう長いこと潜伏できるとは思えない。どこかのキャラバンを頼りながら他の都市まで行ってしまった方がいい。残っている装飾品を売れば、きっとしばらく路銀には困らない。


 でも――――――王宮で帰りを待ってる二人は?


 あの二人を裏切るのは、考えただけで鳥肌が立つ。マルシャはきっと塞ぎこんでしまう。ネフリムは…………寂しがるのは想像できないけど、もしかしたら色々と察して、マルシャと自分が責めを受けないように立ち回ってくれるかも知れない。


 ――——――だけど、「踊り子」を辞めたくないから逃げるのに、逃げた先でも「踊り子」でいられるの?


 多分、それはできる。外の世界にも「踊り子」がいるのをさっき見た。

 酒場がもっと多そうな他の都市なら踊り子も多いはず。素顔を隠しながら、酒場の踊り子として生きていくのも不可能じゃない。

 しがらみのない外の世界で、毎日好きなだけ踊って暮らす。それはとっても魅力的な選択に思えた。


「………………でも」


 サフィは足を止めた。

 想像した。逃げて、逃げて、顔も名前も隠しながら逃げて――――その先で行きついた、聞いたこともない遠い街を。

 サフィの知る人など誰もいない街。

 頼れる人も、名前を呼んでくれる人も、その街には一人もいない。

 寂しくても折れそうでも、誰もいてくれない。


 ——————じゃあ、誰がいればいいの?


 思い浮かべる。誰もいない街で、たった一人の味方。

 寂しくて折れそうで、そんな時、ふと振り向いた先にいてくれる顔。後ろから肩に触れる――――――ざらついたてのひらを。

 

 ―――――――いやいやいや、おかしいって

 

 ひゅら…………つむじ風が砂をはらみ、足元に吹きつける。

 この数日間、外の厳しさは骨身に染みた。だから理解はしている。右も左も分からない街で、たった一人の逃亡生活。そんなもの耐えられっこない。

 サンダルに入った砂粒が纏わりつく。ぬぐえない不快感が、ぽっかりあいた胸の穴を蟻地獄のように広げていく。先の見えない不安が不安を呼び、悪い想像ばかりが心を巣食う。


「ねえ、シドルク」

「…………?」

 サフィは、その言葉を口にするのを躊躇っていた。

 あまりにも都合がいい。あまりにも身勝手。そんな台詞が浮かぶのは、心のどこかで相手を侮っているから。そんな自分嫌悪が渦を巻き、それ・・を喉の奥へと押し留める。

「もしも、ね…………もしも、なんだけど」

 だが、サフィはついに押し殺すことができなかった。 



「逃げたい…………って言ったら、一緒に来てくれる?」



 さり……と、つま先を砂粒が掻いた。今だけは何の感触も与えない。

 月明かりが射す。サフィの影が伸び、向かい合った青年の足に届いている。ほんの数秒の、しかし永い沈黙。

「………………俺は」

「ごめんっ! 今の無し! 言ってみただけっ!」

 シドルクが答える寸前、サフィは拒んでしまった。

 ずるい自分を許せなくなった。それに――――答えがどちらでも、確かめるのが辛かった。


 サフィはずっと感じていた。

 この優しい青年は、あまりにも献身的すぎると。

 あの夜にサフィを拾ったのも、市場バザールで巡邏兵から逃がしてくれたのも、「脱走者」を今日まで匿っているのも…………どれもこれも、たかが「お願い」一つとは釣り合わない危険を冒している。

 だから、サフィは心のどこかで甘え、そして危惧していた。


 シドルクはきっと、来てはいけない窮地ところまで助けに来てしまうんだ、と。


「ごめんね、ほら帰ろっ! ジュニだって待ってるし!」

「………………サファルケリア」

「ひひひっ! そう呼ばれるの、お説教のときくらいだなぁ。ぜんぜん慣れないや」

 サフィは白い歯を見せつけた。とびっきりの笑顔が、月に染められて蒼白く映えている。

 誰かを逃亡生活に巻きこむなんて、元から本気で考えてはいなかった。それ以前に、シドルクに甘えるのだけは絶対にいけない気がした。

 心の波風は凪いでいないが、頭が答えを出していた。

 出頭するか、逃げるか。

 しでかしたことに一人で決着をつけるため、取るべき選択は。


(楽しかったなぁ、外の生活。それに………………踊り子も)


 すぅ―——―……と、右手を差し出す。

 しなやかな蛇のように腕をしならせ、見えないヴェールを泳がせる。

 なびく指先は、舞い落ちる羽毛のようにてらいなく、美しい。

 

 少しでも踊りシャルキィの心得がある者なら、この手を見ただけでサフィの正体を看破してしまうだろう。深夜とはいえ、誰が見ているか分からない街中で、これ以上は許されない。

 気づかないうち、吐く息が震えていた。

「………………っ!」

 夢があった。踊り子に憧れるようになった時から、叶えたかった一つの願い。それを果たせないまま、最後の舞台に立つこともなく幕を閉じる。

 震えているのは、息だけではなかった。

 

 そんな後ろ姿を――――――シドルクは見ていた。


 たおやかな、小さな背中。

 土塊つちくれのような奴隷の腕とは違う、触れれば割れそうな陶器の手。

 血と砂の世界から乖離した、星空から降ってきたような存在。

 

(………………?)


 ふと、シドルクは気づいた。

 サフィが立っている場所の奥、ずっと奥の――――――何もない地面。そこに小さな人影がある。

 じっと目を凝らす。おぼろげに夜闇に浮かぶだけ。顔の見分けなどつくわけもない。そのはずなのに、シドルクには見えた。



 こちらを見つめる――――――栗色の髪の少年が。



「……………………はぅッ、ぐぅう……ッ!」

 突然、シドルクが呻きながら崩れた。背後にいた彼の急変に、サフィも気づいた。

「…………シドルク⁉ どうしたの⁉ やっぱり痛むの⁉」

 すぐさま我に返って駆け寄る。昼間に傷ついた部位に触れないよう、丸まった背中をさすって呼びかける。無事に見えても、やっぱり骨は折れていたのか、それとも…………と、悪い方にばかり想像が膨らむ。

「どうしよう……! ち、近くに療養院ビマリスタンは……! シドルク、とりあえずあそこの影に行こっ! 動ける⁉」

 サフィに肩を貸されて下半身を引きずった後、シドルクの呼吸はようやく小康状態になった。

「………………サファル、ケリア」

「えっ? な、なに?」

 建物の壁にもたれた彼の口元に、サフィは耳を近づけた。


「井戸…………王宮に、井戸……は」

「へっ?」


 サフィは混乱しながらも、彼の質問の意図を汲み取ろうとする。

「…………もしかして、井戸から忍び込もうってこと?」

 確かに、王宮には地下水を汲みあげる井戸がある。水仕事のたびに使っていたので忘れるわけもない。しかし「お城の古びた井戸を探ってみたら秘密の抜け道がありました」なんて話は、都合のいい冒険譚の中だけだ。

「あるけど、涸れ井戸じゃないから水で一杯だし…………たぶん、普通の井戸だよ?」

「そうか、それなら……、………、………………」

 サフィの耳元で質問をささやく。シドルクにも確信があったわけではないが、しかし。

「…………………………ある」

 その言葉は、サフィの記憶の淵底から何かを引きずり出した。


「あるっ! シドルク、あるよそれっ!」


 シドルクの肩をつかんで跳びはねた。夜の街なのを一瞬忘れて声が弾んでしまう。

 シドルクの乱れた呼吸は収まり、無言でうなずいた。そして、いつもの淡々とした口振りで語り聞かせる。

 サフィにとって唯一の希望となりうる、その帰り道を。

「………………帰ろう。用意が要る」

「うん、うんっ!」

 サンダルに纏わりついた砂粒を、サフィは片手で叩き落とした。



 帰還期限まで、あと40時間。

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