誰もいない街で ②

 すでに月は天頂をまわり、大通りの人影は完全に消えていた。


 マーハ市街地の治安は悪くないが、夜盗や悪漢はどこかしらに息を潜めている。ただ、そんな輩にとって今夜の月は明朗すぎた。

 サフィが見つめる先には、王宮の城門の一つ「哀の門」がある。

 

 四つの城門は、それぞれが名前と役割をもつ。


 西に通じる「衛府の門」。

 国王軍を統べる司令塔や、常駐兵五千人をかかえる大規模兵舎、軍馬の厩舎などが外にある。おもに軍の出陣式や凱旋パレードで開かれる門だ。


 南に通じる「慈悲の門」。

 実質的な正門だが、開かれる機会が多いだけあって検問も厳しい。門前の大通りでは最も規模の大きい市場バザールが開かれ、交易都市マーハの象徴になっている。


 東に通じる「えいの門」。

 城門としての機能は無いに等しい。「王の額」が建造される際、街にあった巨大図書館が蔵書ごと引っ越すかたちで付設された。現在では「叡智の門」は門扉ではなく、巨大学術機関の通り名になっている。


 北に通じる「あいの門」。

 王家代々の廟墓につながる門であり、最も小さい。葬儀や祖霊祭でもなければ開放されず、みだりに近づくのは禁忌とされる。


 奴隷小屋から最も近いのは南側の「慈悲の門」で、サフィが見ているのは北側の「哀の門」。つまり「王の額」をはさんだ反対側にまで到達していたのだ。

 全ては、そこに帰還の糸口があると信じて。


「………………ごめん、駄目みたい」


 サフィは「哀の門」を遠巻きに観察し、溜め息をついた。

 門前に立っている番兵の中に、あの恋文ヘルゥラの衛兵を見つけてしまったのだ。

「駄目なのか? 今夜は門番をしてても、明日なら」

「駄目なの。門番ってね、一度なると十日くらい勤めが続くから」

 サフィの知識は正しい。

 頻繁に門のそばを徘徊する人物がいれば気づけるよう、門に配置された衛兵は十日ほど勤め続けるのが決まりだ。つまり、彼はしばらく壁の上の警備に戻ることはない。

 加えて、どんなタイミングでも門番は複数人。彼一人を味方にしたところで意味はない。


 恋文ヘルゥラの衛兵――――という手札は失われた。


 今夜の調査で「王の額」をぐるりと確認して回ったことになる。そう期待してはいなかったが、やはりと言うべきか「壁の穴」など存在しなかった。文字通りの穴も、比喩としての「穴」も。


 尖らせた炭で、布きれの地図に描きこむ。

 「王の額」を表した円は、びっしりと「✕」で埋まっていた。


「……………………。」

 最初から、分かってはいた。

 今日の昼、サフィは「叡智の門」の仕組みを利用して忍び込もうと試みた。そんなふうに王宮内部の人間だけが持つ何かを生かさない限り、手練れの暗殺者すら通れない壁を突破できるわけがない。

 分かっては、いた。

 それでも、自分の生まれた場所に拒まれる気持ちは――――――知りたくなかった。


(…………あれ? 何だろ、あそこ)


 ふと、サフィは目を凝らした。

 「王の額」の最上部の、ある一角だけ明らかに色味が違っている。どう見ても修復のあとだ。欠落したところを、真新しい石灰岩の切石で埋めている。

「シドルク。もしかしてだけど、わたしが倒れてたのって…………あの辺り?」

 指さしたのは、修復のあとが残っている壁の真下。

「…………ああ、あそこにいた」

「やっぱり!」


 四日前の夜、あの壁の上にサフィはいた。

 認識できないほどの速さで飛来した「何か」―――青い流星・・・・の前触れのように飛来した「何か」が、サフィが立っていた足場を砕いた。

 はずみで壁の外へ投げ出され、落下の最中、サフィは「何か」をつかみ取った。

 手が触れた瞬間、痺れるような感覚が走り、サフィは意識を奪われた。


 しかし。

 それら刹那に起きた出来事を、サフィは・・・・覚えて・・・いない・・・


(ええと、あの時は「月に乞うマハ・ラーナ」を踊って…………あれ? 何だっけ? たぶん壁が崩れたんだけど…………何か、えっと…………)


 思い出せない。そこだけ墨を塗ったように。

「シドルク。わたしが倒れてた場所、なにか変なものとか落ちてなかった?」

「…………いや、悪い。暗かったから何も」

「そっか、何だったんだろ」

 謎は謎のまま。とはいえ、謎の答えがサフィに味方するわけでもない。

 あの夜に立入禁止の場所に登っていたのも、今こうして壁の外にいるのも事実。たとえ城壁から落ちたのが不可抗力であろうと、審問官の情けは引き出せない。


 脱走の罪は――――——もう揺るがない。


 その時、ブォ……ッ!と夜風が吹いた。

 油断したサフィの手元から、地図を描きこんだ布が飛ばされた。

「あ……っ!」

 あれを誰かに見られたら――――と焦った。しかし足が動くより先に、布きれは近くの鐘塔に灯された松明たいまつに引っかかった。


 火がうつり、地図が燃えていく。

 焼け落ちていく灰を、サフィは拾おうとも思えなかった。

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